実家のリビングで仕事をしていると、父が書斎から出てきた。
父は少し慌てた様子でテレビをつけると「母さん、ほら」と、うれしそうに画面を指さした。そこに映し出されたのは、黒いタートルネックに身を包んだ、しゅっとしたロマンスグレーの男性――沢木耕太郎だった。
これから自身の思い出を語る為、失礼を承知で、沢木先生はじめ、他先生について、あえて敬称をつけずに語らせていただきたい。読者にとって作者との距離感は、若い頃は特にかなり近く対等だと思うので……。
沢木耕太郎。この名前を見ると、胸がざわつく。胸の奥にいる【思春期の私】がひょっこりと顔をのぞかせるからだ。
冒頭からも分かると思うが、父は沢木耕太郎が大好きだ。
父は中学生の私に「若い今だから読む意味があるから読め」と言い、沢木耕太郎・開高健・ヘミングウェイなど、自身の好きな作家の本を読むように勧めてきた。
ちなみに当時の私のお気に入りの作家は川上弘美・向田邦子・江國香織・村山由佳である。
ここから色々お察しいただけるだろう。
今ならば父の言うことも分からなくはない。いや、嘘。分かるけど押し付けるなよ、という気持ちがいまだに強い。とにかく思春期の私にとって、沢木耕太郎は半ば強制して読まされた作家であり、かなりの冊数を読んだはずなのに、頭を占めるのは内容よりも父への反発心だった。
それがきっかけになったか分からないが、段々と私の読書離れが進み、中学時代はほとんど本を読まなかった。読書よりも映画やドラマ、漫画に興味が移っていった。映画に関しても父のゴリ推しリコメンドはあったが、なぜかそちらのほうが嫌ではなく、すんなり受け入れることができた。なぜかは自分でも分からない。思春期の時のことなんて、本人だってよく理解できないものだ。
高校生になり、また読書をするようになっても沢木耕太郎作品にはどうしても手が伸びなかった。開高健やヘミングウェイは読めるのに、なぜか沢木耕太郎だけは駄目だった。今思えば、頭では沢木作品のすばらしさが分かっていたのに、それを認めることが一種の敗北のようなものがあったのかもしれない。
そんな思春期街道を突っ走る私に沢木耕太郎と向き合わざるを得ない時がやってきた。大学の授業の特別ゲストに沢木耕太郎がやってくることになったのだ。
結論から言うと、その授業後、私は沢木耕太郎作品を読みまくった。シンプルにハマった。きっとすばらしい授業だったのだろう。だろうというのは授業の内容をまったく覚えてないからだ。覚えているのは「父にごり押しされなかったら、読まず嫌いもせず、もっとこの授業も楽しめていたかもしれないのに!」という不満・いらだちだった。
思春期終盤の私を振り返って「いつまでも親のせいにするなよ」という気持ち半分。「まぁそのくらい親の影響って良くも悪くもあるよね」という気持ち半分だ。まぁそんなこんなで紆余曲折あったが、親子そろって沢木耕太郎好きになったのである。
毎度前置きが長くなって恐縮だが、今回グッときたのは、沢木耕太郎が番組の締めで「2023年、こういう年にしたいなということはあるか?」という問いに返した言葉である。
沢木耕太郎は『深夜特急』のあとがきに「恐れずに、しかし気をつけて」というメッセージを読者に向かって最後に一行書いたのだという。だが今は逆で「気を付けて、だけど恐れずに」と思っているそうだ。
それは、コロナなどで失われた何年間を経た若い人たちに向けた言葉だった。それを聞きながら「あぁ私も父も、こういう彼の考え方が好きなのだよなぁ」としみじみした。この言葉が、というより沢木耕太郎自体が私にとってグッとくる存在なんだと思う。
さて、ひょんなことから父と母と流れで沢木耕太郎のインタビューを見ることになった私だが、最初は結構心がざわついていた。また思春期の私が顔を出して、妙ないらだちが湧きたつのではないかとハラハラもした。
けれどそんなことは無駄な心配で、うれしそうに番組を観る父にほっこりするだけで、何の感情も沸かなかった。ざわつき損だった。年を重ねて、思春期から随分遠い所まできてしまったようでほんのりと寂しくなりながら番組を最後まで観たのだった。
1987年生まれ、神奈川県出身。脚本家・小説家として活躍。主な執筆作品は、「DASADA」「声春っ!」(日本テレビ系)、「花のち晴れ~花男 Next Season」「Heaven?~ご苦楽レストラン」「君の花になる」(TBS系)、映画『ヒロイン失格』、『センセイ君主』など。NHK「恋せぬふたり」で第40回向田邦子賞を受賞。