小学4年生になり、担任が若い女の先生に替わった。最初の授業で作文を書かされた。題は「○○になりたい」。将来なりたい職業を書けというのだ……。さて困った。それまで漠然と「映画評論家」になりたいと思っていたが、説明が難しそうで作文に書けない。家業の文房具屋を継ぐという選択肢もあったが、親からは「お前は次男坊だから、好きな道へ進みなさい」と言われていた。そんな僕にも気になる職業があった。放送局のアナウンサーである。
1958年の東京タワー完成、1959年の皇太子ご成婚中継を機にテレビが爆発的に普及し始める一方、わが愛する映画産業は斜陽化の道を歩みつつあった。商家に育ったせいか現実的な考え方をしていた僕は、「これからは映画よりテレビかもしれない」と思い始めていた。
中でもアナウンサーの仕事に興味を持った。大好きな野球の実況中継のすばらしさ。どうしたら、あんなにうまく描写できるんだろう。きっとアナウンサーになれば、球場のいちばん見やすい席に陣取り、大好きな長嶋茂雄選手にもインタビューできるに違いない。ほかにもニュースを読んだり番組の司会をしたりおもしろそうだ。
幸い幼いときから、与えられた本を初見ですらすらと読めるという特技があった。そこで、作文には「アナウンサーになりたい」と書いた。後年、多くのアナウンサー仲間に聞くと、「そういえば自分も同じように幼いころから何でもすらすら読めた」という証言を得た。これは天賦の才能なのかもしれない。
かつて小学生の男子がなりたい職業は「エンジニア、プロ野球選手、パイロット」などが上位を占めていた。令和の小学生は「ユーチューバー、ゲームクリエイター、サッカー選手」などだそうだ。時代は大きく変わりましたな。
次の週、先生は皆の作文を一人ずつ紹介した。「渡辺君はアナウンサーですか。うん、朗読も上手だし、向いているかもしれないね。頑張ってね」。
先生のこのひと言で、僕の将来は決まったのかもしれない。この日から、どうすればアナウンサーになれるのか、考え始めた。生放送の緊張感の中で、堂々と話したり、読んだり、実況したりするには、相当の度胸、胆力が必要だろう。度胸をつけるにはどうすればいいのか……。
幼いころから家業の文房具屋で店番をしていたので、大人と会話するのは慣れていた。店番はインタビューの訓練になった。学級委員になり、卒業するまで学級会の司会も務めた。あとは、毎日放送に耳を傾けた。アナウンサーにもそれぞれ特徴があることが分かってきた。
もちろん、映画も見続けていた。無名だったシルベスター・スタローンを一躍大スターに押し上げた、あの名作『ロッキー』(1977年) のように、映画は僕にいつも「諦めなければ、夢はかなう」ということを教えてくれるからだ。
こうして、アナウンサーになるための修業が始まった。
1949(昭和24)年、東京生まれ。’72年NHKにアナウンサーとして入局。地方局に勤務後、’88年東京ラジオセンターへ。「ラジオ深夜便」の創設に携わったあと、アナウンス室を経て「衛星映画劇場」支配人に就任。「ラジオ深夜便」の「真夜中の映画ばなし」に出演中。
(月刊誌『ラジオ深夜便』2022年10月号より)
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