子どものころから、映画と同じくらい野球が好きだった。目黒(東京)の家の周りには野原がたくさんあり、近所の友人を集めては夕方まで野球に興じた。隣町のチームと試合をするときは、近くの駒沢(世田谷区)まで出かけた。
「1964東京オリンピック」後は立派な駒沢公園に生まれ変わったが、当時は赤土がむき出しで西部劇の舞台のようだった。東映フライヤーズの本拠地・駒澤野球場もあって、プロ野球も観戦できた。昔は松竹や大映もプロ野球チームを持っていたのだ。
当時、近隣の子どもたちは圧倒的に巨人ファンが多かった。なにしろ強かった! しかし川上哲治の衰えが目立ち始め、西鉄に2年連続日本シリーズで敗れていた。そんな中、1957年、六大学のホームラン王・長嶋茂雄の入団が決まった。背番号は「3」。開幕試合こそ国鉄の大エース・金田正一に四打席連続三振するが、その後の大活躍に熱烈なファンとなった。
1958年、長嶋の活躍もあって巨人はリーグ優勝。宿敵・西鉄との日本シリーズを迎えた。七連戦は巨人が三連勝して王手をかけたが、そこからまさかの四連敗。鉄腕・稲尾和久が連日快投、怪童・中西太を擁する強力打線と三原脩監督の巧みな采配に敗れ去ったのだ。巨人ファンはしばらく立ち直れない日々が続いた。もう、西鉄には勝てないのか。
翌年の3月、1本の映画が公開された。『鉄腕投手 稲尾物語』。監督は『ゴジラ』の本多猪四郎である。稲尾とはどういう人物なのか? 探るような気持ちで映画館に行った。大分県別府の漁師の七人兄姉の末っ子に育った稲尾は子どものころから負けず嫌い。家業の船こぎで鍛えた強靱な足腰で野球選手として頭角を現していく。なるほど、都会育ちのわれわれには到底かなわない地力があるということか。稲尾、おそるべし……。
当時、現役のスポーツ選手を題材にした映画が続々と作られていた。1955年『力道山物語怒涛の男』、1956年『若ノ花物語土俵の鬼』、1957年『川上哲治物語背番号16』。 すごいのはすべて本人が出演していること。だから、映画に説得力がある。
『稲尾物語』を見た翌月、福岡から転校生がやって来た。頭には宿敵・西鉄の野球帽をかぶっているではないか。男子生徒ほぼ全員が巨人の野球帽をかぶる中に堂々と仲間入りしてきた村上君の姿に、映画で見た稲尾投手の雄姿が重なり、すぐに親友になった。あれから60年、村上君は元気だろうか?
長嶋が巨人に入団した1958年、映画館の観客動員数は史上最多の11億2700万人に達するが、翌年から下降し始める。映画から、野球やプロレスの実況中継が楽しめるテレビの時代に移り変わっていくのである。
1949(昭和24)年、東京生まれ。’72年NHKにアナウンサーとして入局。地方局に勤務後、’88年東京ラジオセンターへ。「ラジオ深夜便」の創設に携わったあと、アナウンス室を経て「衛星映画劇場」支配人に就任。「ラジオ深夜便」の「真夜中の映画ばなし」に出演中。
(月刊誌『ラジオ深夜便』2022年9月号より)
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