携帯端末に目まぐるしく流れ来るニュースの数々。刻一刻と移り変わる世界情勢。世界とは何か。歴史とは何か——。時代を読み解き、今このときを生きる審美眼を養う特別コラム第12回。
執筆するのは、NHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」をはじめ、多くの名作ドキュメンタリーを手がけてきた映像ディレクター・著作家の貴志謙介氏。全30回(予定)にわたり、ウクライナを軸に世界情勢とその背景にある歴史をひもといてゆく。

序幕 少女は見た

少女は見た。妻が夫のあとを、召使のようにとぼとぼ歩いていくのを。
どうして並んで歩かないのだろうか。

「女はね」とお手伝いのミヨさんが教えてくれる。
「子供のときは父、結婚すれば夫、老いては長男にしたがえ、と教えられる」
ミヨさんは、深いため息をつく。

戦前の日本。
女性は何の権利も保障されず、自分の意志で人生を決めることができない。
 
家長である父親の同意がなければ結婚もできない。
女には財産を相続する権利がない。
正妻とお妾さんが同居しても、がまんするしかない。
子どもを産まないという理由で、家を追われる。

少女は、悲しいはなしを、ミヨさんからたくさん教わった。

「農家が暮らしに困って、娘を身売りにだすこともある」
「学校へ通えず、つらい仕事にかりだされる子どもがたくさんいる」

少女にとって、ミヨさんは、世の中の真実を教えてくれる、「先生」だった。
少女は、日本の女性の悲しみを深く理解できるようになった。

少女の名はベアテ。
1929年、5歳の時、ユダヤ系ウクライナ人の両親とともに日本に亡命。
   のちに日本国憲法の起草者となり、「男女平等」と書く。


運命のいたずらというべきでしょうか。レオ・シロタが亡命先として日本を選んだことは、すべての日本人におおきな影響をおよぼすことになりました。

というのは、日本の敗戦後、GHQの民政局の一員として日本国憲法の起草にかかわったのは、ほかならぬシロタの愛娘、ベアテであったからです。

亡命ウクライナ人の両親をもち、日本で育った22歳の女性が、日本の女性の平等な権利を保障する憲法24条を書いたのです。
日本の女性の切実な願いは、ベアテなくしては、実現できなかったでしょう。

ベアテの貢献は憲法ばかりではありません。戦後ニューヨークへわたったベアテは、ジャパン・ソサエティの文化部門を統括。若い日本人留学生を強力に支援し、40年間にわたり、日本やアジアの芸術をねばりづよく紹介しました。

オノ・ヨーコ、棟方志功、草間彌生、北大路魯山人、大野一雄、花柳寿々紫、武満徹・・・ベアテの恩恵を受けた日本の芸術家は数知れません。

舞楽、日本舞踊、歌舞伎、江戸の祝祭芸能、淡路人形浄瑠璃など、日本のすぐれた上演芸術もベアテの紹介によって、欧米に知られるようになりました。

作曲家ジョン・ケージ、オペラ演出家ピーター・セラーズ、ジョン・レノン、デヴィッド・バーンなど、20世紀の文化史に名を刻む多くの天才たちがベアテの仕事から学び、彼女に感謝しています。

ひとが敬意と愛情をいだくのは、軍事力を誇る国でなく、ゆたかな芸術文化を持つ国です。ベアテは、日本文化の真価を伝えることで、日本のイメージを、ゆたかで奥深いものへと変えていきました。

20世紀。戦争や差別、迫害の恐怖をのりこえて力強く生きた、シロタ一家。
父親のレオは日本の音楽界に尽くした恩人です。
娘のベアテもまた、日本にすばらしい贈り物を送った恩人なのです。

敗戦直後の東京。「廃墟と化した故郷・・・涙があふれてとまらなかった」(ベアテ)

今回から3回にわたりベアテ・シロタ・ゴードンの人生をたどります。

幕を開けましょう。歴史の緞帳をあげれば、そこはみわたすかぎりの焼け野原。
米軍の空襲でなにもかも破壊された1945年の東京です。
そこに22歳のベアテが茫然とたちつくしています。

「そのときわたしは自分が半分日本人であることに気づいた」
とベアテは回想しています。

「残骸と灰になってしまった東京の街・・・変わり果てた無残な姿をさらしだしているのは、わたしが育った大切な大切な故郷なのです。驚きと悲しみ、怒りと失望で、息苦しくなり複雑な思いが身体じゅうを駆け巡りました」

5歳から15歳まで日本で育ったベアテは、1939年、アメリカへ留学しました。
ところが日米戦争のせいで両親との連絡が途絶え、ようやく東京に帰ることが
できたのは6年後。日本が降伏した年です。
もはや馴れ親しんだ東京の面影は、どこにもありません。

やせこけた人々が、亡者のように焼け跡をさまよっています。
戦災孤児、復員兵、引揚者、戦争未亡人、失業者。食べるものもなければ、
すみかもありません。

ベアテは、回想録に記しています。「地面に穴を掘ってつくった壕に住む人が多い」「病気になっても薬がない」「浮浪児のむれがアメリカ兵に物乞い」・・・

全国60の主要都市が空襲で灰燼に帰し、民間人の死者は国内だけで50万人、
焼け出された人は1000万人にのぼります。
7000万の日本人は飢えに飢え、日々、餓死者がふえていました。

国民の生命の危機にあたり、国家中枢のエリートは何をしていたのでしょうか。
国策を誤り、国民を無謀な戦争にかりたてた高級軍人・官僚・政治家。
そのおどろくほど多くが、敗戦後のどさくさにまぎれて、軍の倉庫から物資を横領、ヤミに横流しして莫大な利益を手にしました。

もとは「本土決戦」のために国民からとりあげた物資、すなわち国民の財産にほかなりません。本来は国民に補償すべきものです。

アメリカ政府の調査によれば、「国家経済を優に2年間支えられるだけの物資、大量に備蓄されていた食糧」の大半がヤミに消えてしまったのです。
GHQのオフィサー、セオドア・コーエンは、これを「国家による横領としては近代史上最悪」と評しています。

国家のエリートによる史上空前の横領事件。GHQは徹底的な捜査を政府に命じましたが、官僚のサボタージュにあい、うやむやになってしまいました。

もし、こうした食糧や隠匿物資が戦災者のために使われていたら、どれほど多くのいのちが救われていたことでしょう。

ベアテが暮らした旧・赤坂檜町10番地 「戦争は少女時代の思い出まで葬り去った」(ベアテ)

ベアテは、飢えに苦しむ人々を横目に見ながら、乃木坂へむかいます。しかし、少女時代の思い出がつまった、なつかしいわが家は、影もかたちもありませんでした。ただ、玄関の石柱がひとつだけ燃え残っていました。

「石柱には黒い炎の跡が残っていた。触れると、静かな冷たさが伝わってきた」
「涙があとからあとからあふれでて頬をつたわり、首にまで流れた」

その瞬間、乃木坂で過ごした10年の記憶が、走馬灯のようによみがえりました。


乃木坂の日々 1929-1939

1923年ウィーンで生まれました。両親は、ともにユダヤ系ウクライナ人。父はヨーロッパで活躍したピアニスト、レオ・シロタです。
日本に亡命したのは1929年。ベアテが5歳のときでした。

乃木坂に居を構えたシロタは、請われて東京音楽学校の教授に就任。
関西にも多くの弟子をもち、週末は、神戸の深江文化村で過ごしました。
 
深江の森口自治会長によれば、幼いベアテは砂浜であそぶのが好きで、地元のひとたちに愛されていたといいます。「ボクらが聞いた話では、ベアテちゃん、ベアテちゃんいうて人気者で、日本語も達者やった」

あっというまに日本語の達人となったベアテ。
母はベアテの語学の才能をいちはやく見抜き、語学教育に力をいれます。
驚くべきことに、15歳の頃、ベアテは五か国語をマスターしていました。

シロタ家には、ベアテと気心の通じるお手伝いさんがいました。
美代さんです。彼女は、海辺の町から上京した網元の娘で、頭の回転がはやく、はきはきした女性であったといいます。 
ベアテは、美代さんを通じて、日本の女性や子供がおかれている境遇を深く理解するようになりました。

サンフランシスコの大学を首席で卒業。六か国語をマスターした。

1939年、16歳になったベアテはアメリカのミルズ・カレッジへ留学します。
ところが2年後、日米の戦争がはじまり、両親と音信はとだえ、仕送りもなくなってしまいました。
これからは、ひとりで人生を切り開いていかなくてはなりません。

しかし、ベアテは、逆境をはねかえすパワーをもっていました。
1944年5月、たぐいまれな語学力をアピール、米国海外放送諜報サービス(FCC)で働きはじめ、次に米軍の戦時情報部(OWI)に職を得ました。
1945年3月には、NYへ。アメリカを代表する雑誌「タイムス」の記者に採用されます。ここでベアテは鍛えられ、優秀なリサーチャーに成長しました。

米軍の空爆で、日本の60の都市が破壊されたことを知ったのも、そのころでした。日本で暮らす両親の消息が心配で眠れない夜が続きました。

1945年8月。日本はポツダム宣言を受けいれ、降伏。
日本へ帰り、一刻も早く、両親へ会いたい。無事をたしかめたい。
しかし「一般人としては占領下の日本への渡航はむずかしい時期」でした。

そうだ・・・占領軍のスタッフになればいい。
日本を占領するには、日本語のできる人材がもとめられるにちがいない。

六か国語に通じ、日本語は完璧、しかも「タイム」誌の優秀なリサーチャー。
ベアテは民間の女性として初めて、マッカーサーのスタッフに採用されました。

東京に着任したベアテは、軽井沢に軟禁されていた両親と劇的な再会を果たし、栄養失調で衰弱していた両親を懸命に介護しました。

*当時のレオ・シロタ夫妻の受難については連載コラムの記事をご参照ください
「レオ・シロタの旅路Ⅲ〜軽井沢からアメリカへ」https://steranet.jp/articles/-/857

GHQのスタッフとしてベアテが担当したのは、日本女性の政治運動や草の根の選挙運動をリサーチすることでした。
大正デモクラシーの後、女性の地位を向上させる政治運動が拡大したにもかかわらず、女性の人権は無視され、平然と蹂躙されていました。

焼け跡でも、女性の受難が続いていました。戦争未亡人や引揚者、空襲の罹災者、多くの女性が、家族や子供たちを食わせるため、ヤミ商売もいといませんでした。

一方、政府は、女性を助けるどころか、逆に苦しめる事業に没頭していました。

敗戦直後、国務大臣の近衛文麿(もと首相)は、警視総監をよびつけ、米軍相手の売春施設をつくるよう要請。
「特殊慰安施設協会」(RAA)すなわち官製の巨大売春組織を設け、大蔵省はじめ主要6官庁が計画を推進、いまのお金でおよそ10億円が投入されました。

行き場のない女性が動員され、売春宿に送られました。東京だけで33か所。RAAの幹部は女性を国家のために役立つ「人柱(ひとばしら=いけにえ)」とよび、恥じませんでした。

愚劣な国策のもとで女性を犠牲にしておきながら、RAAの男性職員は高給を受け取り、ステーキを食べ、特権を享受していました。国家のエリートにとっては、売春業者と同様、女性の人権など無きも同然であったのです。


すごいことになった! でも全力を尽くさなければ

1946年2月4日。ベアテにとって、人生最大のヤマ場がやってきます。

この日、皇居前の第一生命ビルの一室に、GHQ民政局のメンバーが緊急招集され、マッカ―サーの厳命が下りました。
「民政局は全力を挙げて、憲法草案の作成にとりかかるべし」

GHQのあった第一生命ビル 「マッカーサー元帥がこわくて柱の陰に隠れた」(ベアテ)

民主改革をいそぐマッカーサーは、明治憲法と変わらない日本政府の草案に業を煮やし、民政局に「憲法起草委員会」をもうけて憲法のモデル案を提示することを決めたのです。

マッカーサーの決断に先立って、日本政府は「憲法問題調査委員会」をもうけ、松本烝治委員長のもとで「試案」をまとめましたが、「天皇制護持」を最優先にかかげ、基本的人権を軽視する超保守的な内容でした。

ポツダム宣言のもとめる基本的人権の尊重、思想・宗教・言論の自由など民主主義の強化とは無縁で、要するに明治憲法の焼き直しにすぎなかったのです。

「松本を中心とする憲法問題調査委員会のメンバーはポツダム宣言を受諾したことの意味、敗戦の意味、民主化の意味をまったく理解していなかった」
憲法の成立過程にくわしい第一人者・古関彰一は、そう指摘しています。

マッカーサーは、世論調査の動向も調査したうえで、もはや民主的なプランの見本を作って、日本側に検討してもらうほかないと決断したのです。

作業チームのリーダーはGHQきっての切れ者ケーディス大佐。ルーズヴェルト大統領のアドヴァイザーもつとめた弁護士です。スタッフは24名。学者、弁護士、ジャーナリスト。民主改革の理想にもえる優秀な人材ばかりです。

ベアテ(中央)を囲むGHQのメンバー

女性は4人。そのひとりにベアテがえらばれました。
自分の名が告げられた瞬間、ベアテは雷に打たれたような衝撃を受けました。

「これはすごいことになった! いま私は人生のひとつの山場に来ている!
まさしくこれは、父母のひきあわせた糸の先に必然的にもたらされた運命かもしれない」
「どうしよう!・・・でもチャンスだわ!全力を尽くしてあたらねばならない」

強烈な使命感がベアテの全身に宿ります。

「少女のころ、乃木坂の家で聞いた日本の女性たちの話を思い出しました。法的な権利が与えられていないためにおこる日本女性の悲劇的な話をおもいうかべて、日本がよくなるためには女性と子供がまずしあわせにならなければならない、なんとか女性に権利をあたえなければならないとおもったのです」

ウクライナからはじまったシロタ家の数奇な運命が、めぐりめぐってベアテを奇跡の時、奇跡の場所に導いたのです。
(第13回へ続く)

【FEEL ! WORLD】
“TOKYO ZERO YEAR”

1945年、東京の焼け野原でベアテさんが目撃した光景はどのようなものだったのか。下記のドキュメンタリーをぜひご覧ください。ベアテさんの回想にある「地面に穴を掘って暮らす人々」や、コラムでふれている「大量の隠匿物資を横流しした軍人」、「国家が莫大な予算を投じて作った売春施設」「闇市や東京租界で働く女性たち」など、驚くべき記録映像を見ることができます。

⦿Tokyo post-World War 2
https://www.youtube.com/watch?v=9vBZrGz4Mas

2017年に放送されたNHKスペシャル「戦後ゼロ年 東京ブラックホール」の国際版です。1945年の東京の記録映像に関しては、カラー映像をふくめて、いまもなお、もっとも貴重なフッテージが集められていると自負しています。アメリカ・ヨーロッパ・台湾・インドなど世界各地で上映されました。
あらためて敗戦直後の映像を見ると、ロシアがミサイルで破壊したウクライナの街、その絶望的な光景をおもわずにはいられません。

京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。