執筆するのは、NHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」をはじめ、多くの名作ドキュメンタリーを手がけてきた映像ディレクター・著作家の貴志謙介氏。全30回(予定)にわたり、ウクライナを軸に世界情勢とその背景にある歴史をひもといてゆく。
魔女と神童 その三
レオは三枚目のカードをめくった・・・ごうごうという風の音がきこえた。
雪におおわれた山中の道。レオは茫然と立ち尽くした。
おばあさんの声がきこえる。
「みてごらんレオ あの可哀そうなひとたちを・・・」
凍えそうな寒さのなか、やせおとろえたひとびとが亡霊のようにさまよっている。
「飢えと寒さに苦しみ、薪とキノコをさがしているのさ」
「・・・おばあさん、ここはどこ・・?」
「いずれわかる。おまえもこの土地に閉じ込められるのだ。」
「・・・嫌だ、ここで暮らすのは・・・凍え死んでしまう」
魔女はつめたく言い放つ。
「レオ、嫌なら逃げるしかないのさ、世界の果てまでも・・・」
1938年、レオ・シロタにとって、衝撃的なニュースが飛び込んできました。
ナチス・ドイツがオーストリアを併合したのです。
ウィーンへの亡命以来、レオの国籍はオーストリアでした。そのオーストリアが消滅したために、レオの国籍は、ドイツに変わってしまいました。
レオは東京にあるドイツ領事館に出向き、パスポートの書き換えを強いられます。
パスポートには、大きく、Jのスタンプが刻印されました。
JとはJUDENすなわちユダヤ人をしめすしるしです。ユダヤ人は、ナチスの支配下、法的にも社会的にも、きわめて理不尽な差別を受けることになりました。
もしこの年、レオがウィーンで暮らしていたなら、史上空前の大群衆が歓声をあげてナチスをむかえる姿を、息をひそめて見つめていたでしょう。
ドイツへの併合を熱狂的に支持する数万のオーストリア人は、狂乱し、ドナウ川沿いのユダヤ人地区レオポルトシュタットを襲撃しました。ナチの親衛隊はユダヤ人の屋敷に忍び込み、財産を略奪しました。絶望した何百人ものユダヤ人がみずから命を断ちました。
レオ・シロタの少年時代、ロシアで荒れ狂ったポグロム(ユダヤ人迫害)が、芸術の都で再演されたのです。
翌1939年、独ソは結託してポーランドへ侵攻、第二次世界大戦がはじまります。
ふたつの全体主義国家は、1941年6月22日突然たもとをわかち、激突します。
独ソ戦の開始です。
ウクライナは、独ソ戦のもっとも重要な主戦場でした。
ヒトラーの東方植民地計画、そしてスターリンの権力の基盤は、いずれもウクライナのゆたかな食糧を支配できるかどうかにかかっていたのです。
スターリンにとって、ウクライナは事実上、ソビエトの植民地であり、1933年には農産物の無慈悲な搾取によって、何百万もの農民を餓死に追い込んでいます。
ヒトラーは、肥沃なウクライナを食糧の供給源として確保し、住民を皆殺しにして、ドイツの「東方植民地」にしようと画策しました。
ナチスは片端から、ウクライナ人を銃殺。捕虜は餓死させました。ウクライナ人を劣等人種とよび、ドイツに強制連行、奴隷のように酷使しました。
1941年8月、シロタ家の故郷、ウクライナのカーミャネチ・ポジリシキーはナチに占領され、2日間にわたって、ユダヤ系の住民23,600人が銃殺されました。もしレオがこの街で人生を送っていたとすれば、このとき、絶命していたでしょう。
ふたりの独裁者にはさまれたウクライナは、大戦中、900万人の犠牲をはらうことになります。そのうち150万人は、ユダヤ系ウクライナ人。ホロコーストの犠牲者です。
独ソ戦がはじまって間もない1941年8月、レオと妻アウグスティーネはアメリカ西海岸へ旅立ちました。留学させていた17歳の娘ベアテに会うためです。
レオは旧友コルンゴルトの案内でハリウッドを見学しました。コルンゴルトは神童といわれたウィーンの作曲家で、アメリカでは映画音楽の巨匠としてもてはやされていました。
映画の都は、亡命音楽家の都でもありました。ストラヴィンスキーやシェーンベルク、ラフマニノフ、ワルターなど20世紀を代表する巨匠がいっせいに亡命。ヨーロッパ音楽界がまるごと引っ越したかのようなありさまでした。
レオ夫妻は、友人から日米開戦が近いと警告され、動揺します。
夫人のアウグスティーネは、「アメリカに残るべき」と必死で主張しました。
しかしシロタは聞き入れませんでした。日本には、レオを慕う弟子たちが待っています。若い才能を開花させることを、レオは自分の使命と考えていました。
当時、レオは56歳。日本で10年かけて築いた演奏家としての名声、音楽教師としての実績、弟子への愛情と強い絆。あきらめきれるものではありません。
しかし、この時、日本を選んだために、レオの運命に暗い影が射しはじめます。
1941年11月25日 レオ夫妻が日本に帰った直後、ドイツ政府は、突然、在外ユダヤ人の国籍を剥奪しました。レオ・シロタはじめユダヤ系の亡命音楽家は、「無国籍」とされ、もはやどこの国からの保護も得られません。
2週間後、日本軍が真珠湾を奇襲しました。ついに戦争がはじまったのです。
ナチスは、日本の公的機関から、アーリア人種以外の民族を排斥しようと画策していました。
驚くべきことに、音楽人の多くが、ナチスに同調します。1943年10月、日本音楽文化協会は、おろかにもユダヤ系の音楽家との共演を禁じました。
翌年、レオは上野の音楽学校から追放されました。
コンサートでの演奏や、ラジオへの出演も禁じられました。
日本音楽界の恩人に対して、冷酷で、理不尽な仕打ちが続きます。
軽井沢という名の牢獄
1945年5月、米軍の空襲で、乃木坂にあったシロタの屋敷は全焼しました。
そのとき、シロタ夫妻は、信州の山中にいました。1944年ころから、日本政府はほとんどの外国人を軽井沢へ強制疎開させていたのです。敵国に情報がもれるのを怖れ、外国人を一か所にあつめ、徹底的に監視するためです。
特高や憲兵が二、三十人も常駐して、四六時中、外国人を訊問。逮捕することもありました。外国人は特高の取り調べの苛烈さを知っており、恐怖におびえました。逮捕されたものは、二度と帰ってきません。戦況が悪化するにつれ、監視はより厳しくなりました。
レオ夫妻はここに閉じ込められ、「飢えと寒さと恐怖のなかで、みじめな思い」(アウグスティーネ)に耐えねばなりませんでした。
軽井沢の冬は零下15度以下になることも珍しくありません。
しかし戦時下ゆえ、燃料は欠乏していました。
厳冬のなか、レオは山中へ薪をもとめ、妻は森でキノコをさがしました。
ときおり、ひそかに食糧をとどけてくれる弟子もいました。
ヤミの物々交換で食いつなぐこともありました。
しかし飢えと寒さに耐える体力はしだいに奪われていきました。
敗戦直後、アメリカからベアテがかけつけたときには、ふたりとも極度の栄養失調で衰弱し、アウグスティーネは床にふせていました。医者の手当ても受けられず放置されていたのです。戦争が長引けば、餓死していたでしょう。
ベアテの懸命の介護によってシロタ夫妻は回復にむかいます。
しかしそのとき、ベアテはふたりに告げなくてはなりませんでした。
レオの兄ヴィクトルは、ワルシャワで政治犯として捕らえられ、行方不明。
ヴィクトルの息子イゴールは、ノルマンディー上陸作戦で戦死。
レオを極東に送り出した弟のピエールは、アウシュヴィッツで虐殺されました。
オーストリアの親戚も、強制収容所で絶命しました。
レオの近親者は、みな戦争とジェノサイドの犠牲になったのです。
ユダヤ系ウクライナ人の人生
一年後。1946年10月18日午後、レオとアウグスティーネは、米国船「マリーン・ファルコン号」に乗って横浜から出航、亡命先の米国に向かいました。
あれほど日本の音楽界に尽くしたにもかかわらず、理不尽な虐待を受け、日本を去ったレオ。どのような心境だったのでしょう。
ベアテが尋ねても、ただ「傷ついた」というひとことを漏らしただけでした。
シロタの愛弟子・藤田晴子は、「日本人はあまりにも恩知らず」と嘆きました。
レオは帝政ロシアでユダヤ系ウクライナ人として生を享け、オーストリアへ亡命、日本で17年、アメリカで19年を過ごしました。生涯を亡命者として過ごしたかれにとって、祖国があるとすれば、どこだったのでしょうか。
第二次世界大戦が終わり、ウクライナはふたたびソビエトの一部になりました。
歴史を通じて多民族社会であったウクライナで、大きな役割を果たしたユダヤ人のコミュニティは、ヒトラーとスターリンの残虐行為によって、ほぼ壊滅しました。大戦後のウクライナでは、ユダヤ人の存在感は小さくなりました。
しかし1991年の独立以来、ウクライナでは多くの民族が和解し、共生をめざしています。
1992年に、少数民族の権利を保障し、言語、伝統、宗教を尊重する法律が制定され、それがきっかけとなって、ユダヤ人の文化と宗教生活が復活しました。
2022年、もっとも国民から支持されている指導者はゼレンスキー大統領です。
かれは、曽祖父母をナチスに殺された、ユダヤ系ウクライナ人です。
最後に、もういちど時をさかのぼります。
1963年11月24日、レオ・シロタは羽田空港におりたちました。
日本の楽壇で重きをなしていたレオの弟子たちが感謝をこめてレオの演奏会を企画したのです。レオが日本を去ってから、17年の歳月がたっていました。
シロタは弟子たちの成長におどろき、自分の努力が豊かなみのりをもたらしたことを喜びました。演奏会の最後に、レオはこう語りました。
「長い生涯の中でも、こんな幸せな時はなかった。今はもう何もいうことはない」
それから2年後。1965年2月25日、レオ・シロタはNYで逝去。長い旅路を終えました。
(レオ・シロタの旅路 終)
【FEEL ! WORLD】
■レオ・シロタはレコーディングには熱心とはいえませんでした。しかし、最近になって、娘ベアテさんのもとに(地下室!)貴重な音源が残されていたことがわかり、ベアテさんから調査を依頼された著名な音楽プロデューサー、アラン・エヴァンスさんの尽力でCD化が始まりました。この発見は、音楽ファンを興奮させました。レオの演奏のすばらしさが再認識され、音楽家としての評価も急速に高まっています。
アラン・エヴァンスさんは惜しくも2020年に逝去されましたが、現在、その志をうけついだピアノSPレコード研究家の夏目久生さんが、音源の権利をもつレオの孫のニコルさん、アラン・エヴァンスさんの御子息と協力して、レオ・シロタの復刻CDをリリースするプロジェクトを進めています。まことに奇遇ですが、その第一弾が、今月、発売されました。下記は、その新譜のなかから、レオの写真とともに、聴きどころを紹介した音楽映像です。
⦿Leo Sirota plays Chopin Écossaises, op.72-3
https://youtu.be/YQLB6gyDWLU
「Écossaises」は、未発表の音源からはじめて復刻された演奏です。
⦿Leo Sirota plays Chopin-Rosenthal : Waltz in No.6 in D-flat, Op.64-1 (r.1929)
https://youtu.be/_wO2mFlJWjI
レオ・シロタ十八番のアンコールピース。ローゼンタール編曲版のパラフレーズ。
⦿Leo Sirota plays Brahms : Capriccio in B minor, Op.76-2
https://youtu.be/QzlcAbHOJfw
発見された音源からは、レコードに遺されていない楽曲も見つかっています。
ブラームスでは、シロタの自由で個性的な演奏に、あらためて驚かされます。
京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。