携帯端末に目まぐるしく流れ来るニュースの数々。刻一刻と移り変わる世界情勢。世界とは何か。歴史とは何か——。時代を読み解き、今このときを生きる審美眼を養う特別コラム第5回。
執筆するのは、NHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」をはじめ、多くの名作ドキュメンタリーを手がけてきた映像ディレクター・著作家の貴志謙介氏。全30回(予定)にわたり、ウクライナを軸に世界情勢とその背景にある歴史をひもといてゆく。

亡命音楽家たちは夏の間、海辺の別荘地である神戸の深江に滞在し、あるいは文化村に根をおろしました。時代は大正デモクラシー、勃興しつつあった「阪神間モダニズム」は、幸運にも、亡命者がもちこんだ高度な音楽文化と出会ったのです。そのインパクトはまさしくメガトン級でした。

現在では、「阪神間モダニズム」という言葉になじみのない方も多いでしょう。戦前の日本におけるモダニズム文化の勃興を考える時に、きわめて大きな影響力をもった現象です。東京一極集中が極端にすすんだ今の感覚からは理解しがたい面があるせいか、ともすればその重みが忘れられがちです。

大前提として知っておくべきは、戦前の日本にあっては、政治権力の中心はいうまでもなく東京であっても、経済や文化はいわゆる「二眼レフ」構造で、首都圏と関西の重力は拮抗していたという事実です。

1930年代半ばの経済指標をみれば、海外貿易の輸出入高で関西圏が東京をはるかにりょう​駕していることがわかります。東京はおもに軍需など官公需が中心、関西は民需に力がありました。手形交換高は均衡。国内卸売高では、関西が東京を上回っています。

私鉄、百貨店、商社、銀行、繊維、製薬、酒造、広告、デザイン、娯楽、観光などをはじめとする近代産業、そして芸能、ショービジネスから映画、演劇、美術、音楽にいたるまで、文化の発信力においても関西の存在感は、いまとはくらべものにならないほど圧倒的に巨大だったのです。

政治権力あっての帝都・東京と、民間の活力を源泉とする民都・京阪神とは、海外の文化を受容するスタイルも違っていました。

『阪神間モダニズム』の建築遺産、芦屋警察署のファサード。1927年に建てられた。阪神間には、空襲や震災を耐え、戦前の重要なモダン建築がいまも数多く残されている。

ウクライナの亡命音楽家が集まった神戸、深江、芦屋の別荘地は、第一次世界大戦のバブル景気以来、関西ブルジョアの拠点でもありました。その豊かさは、関東大震災以後、阪神間に移住した谷崎潤一郎の文学作品にいきいきと描かれています。

阪神間モダニズムを担った関西ブルジョワは、西洋文化の受容に飽くことのない情熱を燃やし、それゆえに亡命音楽家に高い授業料を払って、子弟に個人教授を受けさせることにも積極的でした。関西の音楽文化は、官立の音楽学校によってではなく、関西ブルジョワのいわばポケットマネーを原資として進化したといっても過言ではありません。

革命ロシアから逃れ、苦難の果てに神戸にたどりついた亡命音楽家のパスポートは、1922年のソ連成立以降、「無国籍」とされ、頼りになるのは身を寄せ合って生きる同胞の助け合いとお金だけでした。個人教授によって生計をたてることのできる阪神間は、亡命者音楽家にとっては得難い理想郷だったのです。西洋のしゃなどを細々と行商する多くの亡命者にとっても生活の糧が得やすい環境にありました。

当時、ヨーロッパは第一次世界大戦の過酷な後遺症に苦しんでいました。経済はどん底、政情は不安定、治安も最悪。移民への差別や迫害もありました。亡命音楽家が安定した生活を得ることは決してやさしくはありませんでした。

亡命音楽家が日本で「阪神間モダニズム」と出会ったことは、かれらにとっても、日本の音楽文化にとっても、奇跡ともいえるぎょうこうであって、文字通り「幸福なめぐりあわせ」であったのです。
(第6回へ続く)

【FEEL ! WORLD】
第一次世界大戦で破壊されたヨーロッパ。廃墟のなかを沈痛な表情で視察する皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の映像を、NHKスペシャル「新・映像の世紀」のなかで、紹介したことがあります。

ときの皇太子は世界大戦がもたらした傷跡に衝撃を受け、深い悲しみを表明されました。しかしわずか24年後日本の60の主要都市が米軍の空襲で廃墟になることを、そのとき、だれが想像したことでしょう。

ウクライナへの侵略戦争がどのようなかたちで終わろうと、爆撃で徹底的に破壊されたウクライナに人間の住めない土地が増え、復興までに気の遠くなるような道のりが待ち構えていることはまちがいありません。

ウクライナの鬼才ヴァレンティン・ヴァシャノヴィチが手がけた『アトランティス』(2019年ヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門作品賞受賞)は、2025年、戦争が終わり、廃墟となったウクライナで生きる人々を描く衝撃の映画。監督は、近未来をえがくことによって、避けることのできない現実をあきらかにします。
配給:アルバトロス・フィルム
©Best Friend Forever

■ウクライナ映画「アトランティス」公式予告編
https://atlantis-reflection.com/

地雷の処理だけで何十年もかかります。遺体を掘り出し、身元確認をする仕事が克明に描かれます。インフラは破壊され、復旧の見込みはありません。大気も地下水も汚染され、食糧も尽き、膨大な難民がウクライナを去ります。

戦場での体験がPTSDとなって多くのひとびとを苦しめます。みずから命を絶つひともいます。「戦後ゼロ年」の日本をおもわせる絶望的な光景。まさに「この先のウクライナを予見する、今こそ見るべき物語」です。

京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。