携帯端末に目まぐるしく流れ来るニュースの数々。刻一刻と移り変わる世界情勢。世界とは何か。歴史とは何か――。時代を読み解き、今このときを生きる審美眼を養う特別コラムがスタート。
執筆するのは、NHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」をはじめ、多くの名作ドキュメンタリーを手がけてきた映像ディレクター・著作家の貴志謙介氏。全30回(予定)にわたり、ウクライナを軸に世界情勢とその背景にある歴史をひもといてゆく連載企画。
ウクライナから目をはなすことができません。ロシアは国際法をふみにじり、ウクライナへの残虐な攻撃をエスカレートさせています。ウクライナの街も暮らしも、歴史も文化も、自由も希望も、刻一刻、破壊されつづけています。こども、老人、女性。民間人まで標的にされ、無慈悲に殺りくされています。
許しがたい戦争犯罪は、いつまで続くのでしょうか。世界へ離散した700万におよぶ難民は、どうやって生きていけばいいのでしょうか。
わたしがウクライナに関心をもったのは、NHKスペシャル「新・映像の世紀」の取材中、海外で収集されたウクライナの歴史映像と出会ったのがきっかけでした。そこには、ユダヤ人のホロコーストに匹敵する戦慄すべき迫害が記録されていました。
この百年、ウクライナの人々はくりかえし独立をもとめ、奴隷のような境遇から脱け出そうとしながら、そのたびに踏みにじられ、民族は離散し、辛酸をなめました。どうしてこのような悲劇がひろく伝えられてこなかったのでしょうか。
そうした記憶の欠落について、この連載のなかであきらかにしていきたいと思います。ウクライナが背負っている歴史に目を向けなければ、多大な犠牲を払いながら決して降伏しようとしないウクライナ人の心情を理解することはできないからです。
ただ、そうした謎をときほぐす前に、忘れられがちですが、記憶に刻んでおくべき大切なことがあります。
それはウクライナの人々が20世紀の文化を創造した大きな原動力であり、民族離散の悲劇をのりこえて、私たちすべての人類に、かけがえのない恩恵をあたえてきたという事実です。
映画界の巨人、スティーヴン・スピルバーグがいます。ノーベル文学賞に輝いた歌手、ボブ・ディランがいます。世界を席けんした偉大なマエストロ、レナード・バーンスタインがいます。
いずれも20世紀の文化を語るとき、欠かせない大きな存在です。調べてみて驚きました。みなウクライナにルーツをもつレジェンドだったのです。
『屋根の上のヴァイオリン弾き』で知られるブロードウェーの天才演出家、ジェローム・ロビンス。20世紀最高のピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツ。スヴァトスラフ・リヒテル。エミール・ギレリス。
芸術家だけでなく、20世紀の文明におおきく貢献した巨人が目立ちます。地球外生命を探求したカール・セーガン。言語学の革命家、ノーム・チョムスキー。「免疫」のメカニズムをつきとめ、はかりしれないほど多くの命を救ったイリヤ・メチニコフ。
例を挙げればきりがありません。ウクライナが生み出した才能の豊かさに、心の底から畏敬の念が湧いてきます。
ウクライナの人々が世界にもたらした文化的な衝撃を仮に「ウクライナ・インパクト」と呼ぶとすれば、日本はとりわけ音楽の世界で、特別といってもいいほど深いインパクトを受けています。
クラシック音楽の巨匠たち、エマヌエル・メッテル、アレクサンダー・モギレフスキー、レオ・シロタがロシア革命後の内戦から逃れて日本に亡命し、モダニズム文化を開花させたからです。
音楽ばかりではありません。ウクライナ人は、戦後日本の骨組みをつくった「日本国憲法」にも、決定的な影響をおよぼしました。亡命ウクライナ人のピアニスト、レオ・シロタの娘ベアテは、長じてGHQの若き職員となり、男女平等の理念を憲法に刻むという驚くべき成果をもたらしたのです。
ウクライナの人々は、この百年、世界に離散し、幾たびも繰り返される悲劇をこえて、私たちに大切な宝物を届けてくれました。そこにウクライナ人の魂が宿っています。この連載では、音楽をはじめ亡命ウクラニアンが世界にあたえてくれた宝物を忘却の海から取り戻したいと思います。
そして、百年にわたるウクラニアンの旅路をよみがえらせ、理不尽なロシアの侵略に苦しめられているウクライナの人々の”魂の声”を聴きとりたいとおもいます。
(第2回へ続く)
写真協力:公益財団法人 日本ユニセフ協会
ユニセフは、ウクライナと周辺国の国境付近に子どもたちと家族への支援拠点を設置するなど、ウクライナ国内外で人道支援を届けています。
京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。