「平清盛」第27回「宿命の対決」から、いよいよ源平盛衰を操る多彩な人物が動きだします。源頼政・藤原成親・常盤御前・源頼朝(ナレーションでもおなじみ)・池禅尼・源義平などです。それぞれ、これから起こる大きな事件の主役になる人物です。
でもそれらの事件はドラマの見どころですから、先取りはひかえます。ぼく自身も展開を楽しみにしているひとりですので。
このなかでひとりだけ、おそらくその行動に、ほとんど触れられることがないであろう人物がいます。源義平です。歴史外伝のような話を紹介します。
義朝の長子である義平には、“悪源太”の異名がありました。そのイミは、
「悪い源氏の太郎(源氏本家の相続人)」
ということでしょう。とにかくらんぼう者でした。
15歳のとき、武蔵国大蔵谷(埼玉県比企郡嵐山町)にあった、源義賢の館をおそいました。義賢は為義の子で、義朝の弟です。
義朝は父から鎌倉の領地と源氏の棟梁の資格をゆずられていましたが、東国の源氏を束ねるのにはすこし力不足でした。ある研究者は、
「小心者ですぐ不安と疑いをもつ人物だった」
と分析しています。
義賢が朝廷の官職を辞して関東にもどってくると、
「義賢に鎌倉の土地と棟梁の座をうばわれはしないか」
と心配しました。義朝は京都で生活することが多かったのに比べて、義賢は関東地方にかなり根を張っていたからです。
義朝のボヤキをきいた義平は
「おやじ殿、わかった!」
とうなずくと、1155(久寿2)年8月16日の未明に義賢を急襲しました。そして義賢をころしてしまいました。
このとき義平が必死になって捜した駒王丸という2歳の子がいました。義賢の子で小枝という側室が産んだ子です。
「生かしておくと将来のわざわいになる」
と義平は考えたのです。
しかし母子は畠山重能(畠山重忠の父)や、のちに有名になる斎藤実盛などの助力によって、木曽(長野県南部)の中原という豪族に預けられます。
駒王丸は木曽で育ち、のちに木曽義仲となのって、頼朝より先に京都に突入します。義平の不安は的中し、義仲は平氏だけでなく同族をもおそれさせる“時代の狼”に成長するのです。
(NHKウイークリーステラ 2012年7月13日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。