2012年は沖縄が日本に復帰してから40年になります。40年前の返還式典の日(1972年5月15日)、美濃部亮吉都知事の秘書だったぼくは、知事のお供をして式に参列。行きは外国旅行(パスポートが必要)、帰りは国内旅行という奇妙な経験をしたのです。
雨の日で、赤や黄のハイビスカスの花が、しずくにふるえていました。本土復帰後の初代沖縄県知事になる屋良朝苗さんが、“ひめゆりの塔”に案内してくださって、洞穴をゆびさしながら、
「その穴のなかに、うちの娘もいるンですよ(ここで亡くなられた)」
といわれたことばを、いまも重くうけとめています。
琉球とよばれたむかしの沖縄は、“この世の理想郷”のような時代がありました。1609(慶長14)年の薩摩藩軍の侵攻によって、以後の琉球はそれまでの中国への朝貢をつづけながら、薩摩藩の支配をうけるという二重苦を味わいました。
そんなときに向象賢(羽地朝秀)という琉球の政治家が、その著書のなかで「日琉同祖論(日本人と琉球人の先祖は、おなじである)」という説を唱えたのです。色々な伝説をミックスしたもので、事実ではありません。
それには、
・保元の乱で敗れた源為朝は捕らえられ伊豆の大島に流された
・為朝は付近の島々を制圧し支配者になった
・やがてかれは黒潮にのり、“運を天にまかせて”、琉球本島の北部にたどりついた
・上陸した為朝はそこに住みつき、地域の実力者の娘と結婚し子を生ませた
・この子がのちに舜天となり、琉球王尚氏の祖となった
と語られています。
名護市の北に位置する今帰仁村には、「源為朝公上陸之趾」という史碑が建てられ、上陸港は運天港とよばれています。
尚氏が統一する前の琉球本島は、北山・中山・南山の3地域にわかれ、それぞれ城がありました。北山の城が今帰仁城です。
復帰以来、沖縄(“おきなわ”というのはほんとうは正しくない、“うちなー”というそうです)にハマったぼくは、よく訪ねますが、いちばん好きなのが今帰仁城です。城を“ぐすく”といいますが、ほんとうに“ぐすく”らしい城です。
伝説が事実なら、為朝も当然この城の石垣から、はるかな日本を眺めたことでしょう。
(NHKウイークリーステラ 2012年6月15日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。