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毎週日曜、放送中のプレミアムドラマ「しずかちゃんとパパは、聴覚障がいのある父・純介(笑福亭鶴瓶)と2人で暮らす娘・静(吉岡里帆)が、少々変わり者のデベロッパー・圭一(中島裕翔)と織りなす笑いと涙の物語。

〈第4回のあらすじ〉

「スマートシティ計画反対」のビラに「確認済」のハンコを押して回る圭一(中島裕翔)に怒り心頭の純介(笑福亭鶴瓶)。一方、静(吉岡里帆)は圭一のために弁当を作るほど浮き足だっていた。

純介は、計画阻止のために「けんちん祭り」で町を盛り上げようと商店街の面々に提案。静が祭りのチラシを圭一に渡すと、「参加したい」と興味を示す。いっしょに祭りの準備を進めるなかで、圭一と町の人々との距離は少しずつ縮まっていくが……。


「言葉で伝えても 伝わったのは言葉だけ」
第4回を見たとき、思春期によく聴いていたある曲の歌詞が私のなかでリフレインしていた。

言葉というのはすてきなものだ。
心で思っていることは、この世界にあふれる言葉で無限に表現できる。

しかしその一方で、言葉だけですべてを伝え尽くすことは難しい――。
伝わったかどうかを決めるのは自分ではなく、それを受け取る相手だからだ。
共生社会を生きるうえで、当たり前であるがゆえに意識されにくい大切なことを、このドラマはそっと教えてくれている。


「パパで知ってるはずなのにねえ。口に出す言葉がぜんぶじゃないってさ」
口下手で、感情の起伏が見えにくい圭一を前に、梅子(萩尾みどり)はそうつぶやく。
圭一には「人の気持ちを読み取ることが苦手」という自覚があった。 

“空気を読む”ことが苦手で、会話も常にストレートな言い回しが多い。
他人に言われたことを言葉どおりに受け取る。調子のいいお世辞を言うこともない。

圭一は一見、コミュニケーションが苦手なタイプのようにも見える。しかし今回、「けんちん祭り」を通じて、確かに圭一は町の人々と心を通わせていた。

口もうまくなければ愛想もない。しかし、彼はひたすら実直だった。まっすぐで、うそ偽りがなかった。だからこそ、人々は圭一を信じようと思ったのだろう。

うわべを取り繕うことなく、ただまっすぐに。それが圭一のコミュニケーションともいえる。町の人々は言葉ではない別のところで、彼の誠意を受け取っていたのだ。

人それぞれ、コミュニケーションの方法は多様だ。
ろう者の純介は、声こそ出さないものの、意見があれば率先して前に出る。彼にとっての言葉は手話だ。そして手話で話す彼の表情は、いつも喜怒哀楽に満ちている。

手話がわからない周りの人にとっても、彼のコミュニケーションはわかりやすい。
声を出さないのに、何だか“うるさい”のだ。表情の豊かさのたまものである。言葉がコミュニケーションのすべてではないことを純介は教えてくれている。

実際、私たちの日常生活においても、言葉だけでは真意が伝わらないことは多い。ことさら文字だけのコミュニケーションは、かなり難しいように思う。

SNSが流行し、文字だけのやりとりが当たり前となった現在。
いわゆるデジタルネイティブといわれる私たちの世代ですら、いや、むしろデジタルで育った世代だからこそ、言葉のチョイスには細心の注意を払っている。

直接的な表現をすると、どこかこわい印象を与えてしまうのではないかと思い、「〜かも」「〜な感じ」と断定的な言い方を避け、さらに語尾に絵文字までつける。えん曲的な言い回しが気遣いであり、やさしさであると考えてしまう。

例えば、体調を崩した友人に「大丈夫? 無理しないでね」とSNSでメッセージを送ることがある。だが、どうしてもどこかうわべだけのような気がしてならない。

心配だったから、それを文字で送った―― その気持ちにうそ偽りはないが、送信ボタンを押した瞬間、その言葉は単なる文字となり、私から離れて温度を失ってしまうように感じる。

私たちが相手から受け取っているのは、文字や声に置き換えられた言葉そのものではない。
その言葉の背後に隠れている“思い”であることを忘れてはならない。

「言葉で伝えても 伝わったのは言葉だけ」
この歌詞が私のなかで鳴り響いてやまないのは、ここに理由がある。

1998年、東京都生まれ。大学院では「狂言に描かれる障がい者像と笑い」について研究。身体性別による差別と、それを取り巻く社会構造についても大きな関心を寄せる。女性の人権活動に多数参加。