〈第3回のあらすじ〉
静(吉岡里帆)は、圭一(中島裕翔)と音楽会に行ったことを純介(笑福亭鶴瓶)に話せずにいた。一方、純介はさくら(木村多江)の小学校の卒業アルバム作りを楽しんでいたが、学校の路線バスが廃止となると知りショックを受ける。
娘に送迎の負担をかけまいと、これまで乗れなかった自転車に乗ろうとがんばる純介。静と康隆(稲葉友)が手助けするも、フラフラと転倒してしまう。
やはり父に自転車は厳しいのか……。「壁」にぶつかった静に、圭一はある助言をする。
「最近の子はすぐ心が折れる」「がんばりが足りない」「それ、単なる甘えだから」
誰かから、そんなことを言われた経験はないだろうか。
“最近の子”である私にとって、この第3回は「共感」の連続であった。
そもそも「がんばる」とは、一体どういうことなのだろう?
劇中、さくらの小学校で開催される運動会の目標が「壁をこえろ!」だったが、はたして目の前に立ちはだかる「壁」を乗り越えようとすることだけが、「がんばる」ことなのか。
それ以外は「がんばった」とは言えないのか――。
そこで、今回注目したいのは、以下の静と圭一のやりとりだ。
圭一:乗り越える? 壁を、ですか?
***
圭一:壁は乗り越えてはいけません。必要だから、そこにあるんです。道を歩いていて壁に突き当たったとき、乗り越えようとしている人を僕は見たことがありません。そういうときは、引き返して別の道を探すものかと。
静:でも、もし道が見つからなかったら?
圭一:道は必ずあります。陸路がなければ、空路です。
静:たしかに。空まで塞ぐ壁は誰にもつくれないですね。
圭一:飛行機をチャーターしましょう。
静:いいんですか? それ、なんか、全然がんばってないような。
圭一:目的は、がんばることではなくて、壁の向こうにあるどうしても行きたい場所に行くこと、ですよね。
正攻法でなんとかがんばろうとする静。
一方、目的を果たせるなら、ほかのやり方もいとわない圭一。
どちらの考えも、私は正しいと思う。
そのうえで、「壁」は乗り越えなくてもよいという圭一の考えには大きく共感する。
第2回では、“ろう者が音楽を楽しむ方法”について、圭一はさらりと「ネットで調べました」と言っていた。
同様にして、「陸路がだめなら空路で」という発想は、無数の選択肢が見えているからこそたどり着けるもの。
インターネットを見渡せば、さまざまな選択肢が提示されている。その中から、最適なものを選べばよい。同じやり方で七転八倒しなくても、ほかのやり方を探せばいいじゃないかという思考。
ところが、「壁」に正面から挑まないことは、時に“甘え”とも見られる。
かつて私も「壁」にぶつかり、行き詰まっていた時期があった。
友人関係で悩み、もう教室に行くのはしんどい…… そんな気持ちが頭をもたげていた。
思い切って両親に打ち明けると、「そんなことで?」「まだがんばれるでしょう」「行かないのは甘えだ」という返答がかえってきた。
「私もがんばれるならがんばりたい、けど……」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「もうがんばれない」とは言えなかった。
今の状況をのがれることは、やはり甘えなのかもしれない――。
そんな意識が私の中にもあったのだ。
しかし、当時の私は「壁」を乗り越えるには、エネルギーが足りなかった。
そこで、教室を迂回して“安全基地”に一時的に避難することを思いついた。
私にとって安心できる場所は、図書室にあった。
しばらくして友人関係はもとに戻り、教室に行くしんどさも消えていった。
図書室に逃げ込むことで目の前の「壁」を迂回し続けた日々、それはそれで正しかった。
今ならそう胸を張れる。
真正面から「壁」に挑み続けることが、「がんばる」ではないと私は思う。
また、ほかのやり方を選ぶことで、「全然がんばっていないような気がする」と引け目を感じる必要もない。
多くの人が抱く「がんばる」は、難解な問題を前に、既存の知識をあてはめて答えを探そうとするのと似ている。
しかし、これまでの偉大な発明が示すように、真の答えは新たな着想にこそ存在するものだ。
人生の最適解を導く柔軟な思考を、私は「がんばる」と再定義したい。
1998年、東京都生まれ。大学院では「狂言に描かれる障がい者像と笑い」について研究。身体性別による差別と、それを取り巻く社会構造についても大きな関心を寄せる。女性の人権活動に多数参加。