今回は、政治の世界でまた大きな出来事がありました。将軍(せい)()(跡継ぎ)・徳川(とくがわ)家基(いえもと)(演:奥智哉)の(きゅう)(せい)と、“(しろ)(まゆ)()”こと(ろう)(じゅう)(しゅ)()(まつ)(だいら)武元(たけちか)(演:石坂浩二)の逝去です。両者は50歳近く年が離れていますが、たまたま同じ安永(あんえい)8(1779)年に亡くなりました。

ドラマでは、その辺りをミステリー仕立てにして、両人が何者かに毒殺されたというストーリーが展開していきました。これは、史実とは大きく異なりますが、ついそういう風に説明したくなってしまう構図や雰囲気がじつは当時からありました。

本コラムでは、家基と武元が逝去した経緯、他の老中たちの相次ぐ逝去などが()(ぬま)意次(おきつぐ)(演:渡辺謙)に与えた影響や、当時から流布(るふ)していた意次による暗殺説の内容・背景などをたどっていきます。

家基は、第10代将軍・(いえ)(はる)(演:眞島秀和)の長男で、第11代将軍への就任を期待されていました。ところが、安永8年2月、(あら)()宿(しゅく)(現・東京都大田区山王辺り)へたか狩りに行く途中、東海寺で休憩した際に体調を崩して亡くなりました。享年18。

同年7月、武元も病気で逝去しました。享年67。じつは、この時期に亡くなった老中は武元だけではありません。意次が安永元年に老中に就任したとき、老中は5人いました。ですが、その後、安永8年から天明(てんめい)元(1781)年のわずか2年半のあいだに4人が亡くなりました。前述の武元、安永9年6月の板倉(いたくら)(かつ)(きよ)、同年11月の阿部(あべ)正允(まさちか)、そして天明元年9月の松平(てる)(たか)(演:松下哲)です。

かくして老中は、天明4年5月までは、首座の松平(やす)(よし)(演:相島一之)、意次、新任の久世(くぜ)(ひろ)(あきら)の3人。常時5~6人が定員の老中は、しばらく3人体制になりました。

側用人(そばようにん)を兼帯(兼任)しており、家治の信任が厚かった意次を抑えられる老中は、康福だけです。ただ、康福の娘は、意次の(ちゃく)()(おき)(とも)(演:宮沢氷魚)に(とつ)いでいました。広明の孫も、意次の外孫(他家にした娘から生まれた子)の結婚相手でした。

こういった縁戚関係を一つの背景として、意次は息子の意知を「部屋(へや)()み」(家督相続前の状態)のまま奏者番(そうじゃばん)(幕府の儀礼を司る役職)に就任させ(天明元[1781]年12月)、さらには若年寄(わかどしより)(幕府内部を管轄する要職)に昇格させます。このような異例の人事を行った(同3年11月)のも、この老中3人体制の時期でした。

そんな権力構造の(もと)では、意次の権勢が一層高まっていきます。下総(しもうさ)(こく)(いん)()(ぬま)開拓工事、蝦夷地(えぞち)開発、貸金(かしきん)会所(かいしょ)構想など、田沼色の強い政策が打ち出されていったのも、ちょうどこの時期です。

当時から意次による家基の暗殺説や老中たちの相次ぐ逝去への関与の風聞(ふうぶん)が流布していたのも、これが一つの背景でした。どんな内容なのか見てみましょう。

家基に贈る手袋の手配を意次に依頼した大奥総取締役・高岳たかおか(演:冨永愛)。ドラマでは、この手袋が家基毒殺の重要アイテムになった。

 

意次の息のかかった医師が毒薬を処方!?

前述の武元の右筆(ゆうひつ)(秘書役)を務めた儒学者・(いし)()(ほうしるした『続三(ぞくさん)(のう)(がい)()』(寛政(かんせい)初[1789]年頃成)という書物(写本で流布)には、次のように記されています。

池原雲いけはらうんはくという医師を意次が家基に(すす)めて、侍医(じい)とした。家基が病気になったときに雲伯は、「若い人が療養するには、旅行して養生するのが一番です」と進言した。そこで、家基は鷹狩りに行った。家基の体調は悪かったが、雲伯らがこれを強行させたことで家基は途中で体調を崩し、江戸に帰ってから症状が重くなり、ついに薨去(こうきょ)した。

さらには、前述の武元や勝清の相次ぐ逝去についても、次のように述べています。

勝清のことが嫌いだった意次は、安永9年に家治に進言して勝清が狩りに行くことを勧めた。この将軍の命令を聞いた勝清は、「年老いた者が狩りに行けば病気にならざるをえない。意次はすでに武元を(ほろ)ぼし、さらには自分まで亡ぼそうとしているのか」と述べた。勝清はこの年に薨去した。

先年正月に、(同じようなかたちで)武元に狩りを命じたところ、武元は江戸に帰ってきて程なく病気にかかって薨去した。だから、勝清が言っていた通りなのだ。

医者や狩りを利用しながら、病死に見せかけて将軍世子や老中を排除する――。今回のドラマにも出てきそうな恐ろしい内容です。

ちなみに、池原雲伯((よし)(のぶ))はドラマには登場しませんが、実在の(おく)医師(いし)です。安永5年から、家基の侍医を勤めています。雲伯については、『虚実夢物語』(あるいは『実説夢物語』。寛政初年頃成)という筆者不明の写本に、次のようなことも書かれています。

天明5年7月頃、(御三家の一つである)尾張藩主の病気がとくに重かったとき、家治が意次に将軍家お抱えの医師を派遣するように命じた。意次は、尾張藩主こそ御三家第一の賢人であるから今回は(彼を暗殺する)絶好の機会であると考えた。そこで、雲伯を派遣した。雲伯は尾張藩邸で薬を調合して差し上げたが、尾張藩側は協議した結果、その薬の処方は見送った。尾張藩主は、段々体調が回復していった。

同年8月、また雲伯が参上して、薬を調合した。尾張藩側は、「これからチェックして藩主に差し上げる」と述べると、雲伯は怒り出し、「人の嫉妬は恐ろしい。私は、その昔この近所の(まち)医者(いしゃ)だった。今のように出世するとこういう悪戯(いたずら)をされるのは医道の法にあらず」と嘲笑した。

雲伯が調合した薬に(はん)(みょう)(昆虫由来の毒薬)らしきものが入っていることに気付いた尾張藩の医師が雲伯の薬箱を調べようとして()みあったところ、尾張藩の岸田門加という16歳の男が雲伯を袈裟(けさ)けにして、雲伯は死亡。

その後、尾張藩は、この事件をどう処理するか雲伯の親類も呼び出して協議し、闇に葬ることに決まった。

雲伯の薬で亡くなった者は、久世(くぜ)大和(やまとの)(かみ)依田(よだ)豊前(ぶぜんの)(かみ)である。意次のために殺された者たちは、(雲伯の調合した)薬を5日間呑まないうちに病気が重くなって死んだケースが多い。意次は大胆不敵の人であることはよく知られているが、このことを誰も言い出さないのは愚かである。

これも、ドラマにできそうな不気味な話です。この時期の尾張藩主は、徳川(むね)(ちか)。彼をも()き者にしようとした意次は、やはり雲伯を送り込むが、今回は斬られて死亡するという筋立てです。実在の雲伯は、天明5年7月には亡くなったようなので、この話には少なからず齟齬(そご)があります。

久世大和守は前述の老中・久世広明、依田豊前守は(おお)()(つけ)(大名・幕政を監察する役職)を勤めた旗本・依田(まさ)(つぐ)のことで、両者は天明5年、同3年に亡くなっています。彼らにも、毒殺疑惑が浮上していました。

息子・家基を殺した黒幕が意次だと考え、憎しみの表情を見せる知保の方(演:高梨臨)

将軍世子と老中たちの相次ぐ逝去と老中3人体制、そして田沼政治の積極的展開――。この状況を苦々しく見ていた人たちからすると、意次や雲伯によって毒殺などの狡猾(こうかつ)な手段が次々に行われてこんな状況になったという説明は納得しやすかったのではないでしょうか。

古今東西の陰謀論やその形成過程と比較してみると面白いかもしれません。

 

参考文献:
辻善之助『田沼時代』(岩波文庫)
藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房)
山本博文『お殿様たちの出世 江戸幕府老中への道』(新潮社)
『寛政重修諸家譜 第22』(続群書類従完成会)

 

東京大学グローバル地域研究機構特任研究員。日本近世史・思想史研究者。政治改革・出版統制やそれらに関与した知識人について研究している。早稲田大学第一文学部卒、東京大学大学院総合文化研究科修了。博士(学術)。著書・論文に『近世日本の政治改革と知識人』(東京大学出版会)、『日本近世史入門』(編著 勉誠社)、『体制危機の到来』(共著 吉川弘文館)など。