宮沢賢治が生まれたまち、岩手県花巻市の取り組みのひとつとして、人生の中でも最も多感で豊かな創造力をもつ高校生を対象に、“童話”という自由な表現の場を提供することを目的に実施。
「全国高校生童話大賞」実行委員会:富士大学、花巻市、花巻市教育委員会
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太陽が顔を隠して、紺青が紫の空を覆ってゆきます。どこからか、シリシリシリ……と虫の声が聞こえてきました。新月の夜に森がしずんでしまえば、小さな星がちらちらと光るだけでは、道はおろか、一寸先も見渡すことはできません。
そんな時です。こちらを手招きしているヤツデを透かしたその向こう。橙色の光が煌々と輝いておりました。アメ色になるまで磨かれた木の支柱に、お皿をひっくり返したような笠、それに何といっても、あたりを照らし出す丸い電球。それは街灯でした。周りにはたくさんの虫たちが飛びまわり、翅をこすりあわせておしゃべりを楽しんでいます。街灯はその様子をじっと眺めていました。
「いやあ。夜なのに昼みたいだ」
一匹のカメムシが眩しげに街灯を見上げます。その目がやけにキラキラとしていて、街灯は思わず、ふいっと森に視線を移して、黒くぬりつぶされた木々を恨めしげに見つめました。
「でも周りは真っ暗じゃないか」
自分が照らしているところなら、道に転がる小石を数えることができるほど明るいでしょう。けれども虫たちが少し飛べば、すぐに光なんて届かなくなってしまうことは街灯にだって分かりました。
「私らはお天道様が隠れておしまいになったら、なんにも見えやしねえんだ」
不意に、柱にとまっていたコフキコガネが話しはじめます。彼は言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぎ、街灯を優しくなでてくれました。
「お前さんがきてくれたのは、山桜の咲く頃だったか。こうやって皆でおしゃべりができるようになったのはそれからなんだよ」
彼の言葉に他の虫も頷いたり、飛び回ったりします。
「……そう」
街灯には素っ気なく返事をすることしかできませんでした。無性にコフキコガネの言葉がくすぐったく感じたからです。街灯の照れ隠しのようなつれない態度に、彼はにこにこと笑って翅を揺り動かしました。虫たちの会話はだんだんと賑やかになってゆきます。
「待って、兄さん」
突然、声が目の前の小道を吹き抜けました。虫たちが、なんだ、なんだとそちらを振り向きます。そこは人が昼も夜も行き交う道でした。次の瞬間、人の子がその緩やかに下った道を毬のように転がり落ちて、光の中に飛び込んできました。
短いズボンから見え隠れする膝が赤く擦りむけています。そんなことなど気にもとめず、その少年はぱっと立ち上がりました。そうして、草木をかきわけてやっと通れるような獣道を竹箒を振り回しながら、下ってゆきました。街灯は呆気にとられます。
「なんておそろしいの!」
虫たちの中の誰かが身をふるわせて街灯の影に隠れました。けれども街灯は、その誰かの言葉なんて聞いてはいませんでした。なぜなら、先ほどの子を追うようにもうひとり、人の子が下ってきたからです。その子は竹で編まれた籠を持ち、スカートの裾をひらひらとさせながら、街灯の下でキョロキョロと誰かを探しています。
「待ってって言ったのに。……川はこっちかな」
ほんの少し前の声はこの子だったようです。彼女は不安そうに獣道を見やって、籠をぎゅっと抱くと飛び込むように入ってゆきました。
「忙しない奴らだよ、人間ってのは。特に子どもときたら……」
ガムシがやれやれとでも言いたげな口調でつぶやきます。
「そうそう。子どもってのは残酷さ。この前なんか、アサギマダラの娘さんが人の子に印をつけられたとかなんとか。それで、羽に模様が増えてしまったんだって」
皆がこわごわと話します。街灯はそれに耳を傾けながら、人の子が消えた獣道を見つめ続けました。
「コフキコガネさん」
街灯がぽつりと呼びかけます。彼はまだそこにいました。
「なんだい?」
「人の子は暗くても大丈夫なんだろうか」
コフキコガネはあっけらからんと言いました。
「お前さんの心配することじゃねえさ。人は私らより夜目がきく」
待っていれば直ぐに姿を見せるだろうと言って、彼はどこかに飛んでいきました。コフキコガネの言った通り、人の子たちは幾分もしないうちに草木をがさりとかきわけて来ました。
少女の籠にはなにやら淡く光るものがあります。街灯は目を凝らしてそれが何かを見ようとしましたが、少女の手に遮られてしまってうまく見えません。けれども、周りの虫たちはわっと騒ぎはじめて、散り散りになってゆきました。街灯が驚いて反応もできないでいると、人の子とは違う足音がひとつ聞こえてきました。
「あらあら。それは蛍?」
「母さん」
優しそうな面立ちの人が子どもたちの頭や服についた泥を払い落とします。そして、街灯の光を眩しそうに見上げました。
「月よりよっぽど明るくて安心ね。子どもたちのお迎え、ご苦労さま」
彼女の手が街灯をするりとなでてゆきました。その温かさがじんわりと胸に広がります。
「ここ、明るくなったから道に迷わなかったんだ」
少年がぼそっと口を開きました。それに少女も大きく頷きます。
「それは良かったわ。さあ、帰りましょうか。お父さんが待ってるわよ」
「うん。あのね、蛍にね、箒をふわっと持っていったら、とまってくれるの! とってもきれいだったのよ」
少女が手を引かれて、ぴょんぴょんと跳ねながら歩きます。光の外へと一歩踏み出すと、彼らはすうっと夜にまぎれてしまいました。
街灯は光と闇の境目を見つめました。紺と橙がお互いを押したり引いたりしながら混ざりあっています。道に転がった砂利の一つひとつ、葉っぱの一枚一枚までもが自身の光でつやつやと輝いているのを見ると、街灯は心が満たされたような気分になりました。
この日も、次の日も、街灯は夕方になると明かりを灯し、太陽が昇るころに眠りにつく日々を過ごしました。毎日、毎日。何年も、何十年もです。人々の願いで造られた街灯は、夜道を照らし、虫たちの笑いに満ちた噂話を聞き、酔っ払ったように歌い明かす彼らを見守る日々を続けました。そんな中で何度も耳にしたのが感謝の言葉でした。
――ああ、僕は誰かの役に立っているんだ。きっと皆にとってかけがえのない物になっているんだ。
いつの間にか、街灯の心は喜びや得意でいっぱいになっていたのです。
ある昼下がりのことです。街灯の前の小道を一台の車が走り抜けてゆきました。窓からちらりとのぞいたのは見知った男の姿でした。彼は昔、蛍を取りに獣道を走ったあの子です。
時には網を、時には釣り竿を持って小道を駆け回り、帰ってくる頃にはどこかしらに必ず傷を作ってくるような子でした。けれどいつの頃からか、彼はあたりを駆け回らなくなってしまい、最近では姿を見かけることもなくなっていたのです。街灯は彼の外出を珍しいこともあるものだと思いつつ、また眠りにつきました。
それからいくら経っても、彼が帰ってくることはありませんでした。街灯が気がかりに思っている間にも、彼と同じように出て行ったきり戻ってくることのない人々の姿を何度も見ることになりました。
そうやって、いくつもの別れを繰り返すうちに、街灯の前を通る人の数は減ってゆきました。ひとりも通らない夜があることも稀ではありません。街灯の手入れをしてくれるのはシワの刻まれた手ばかりで、今年の初夏など、周りの枝を払ったくらいで街灯の笠に絡みついた蔦さえ取ってはくれませんでした。
けれども、今日も街灯は太陽が沈んでいくと明かりをぽっと灯します。街灯のそばでは今も昔も変わらず、虫たちが毎夜のごとくお祭り騒ぎをしているのですから。
――虫たちは僕を必要としてくれているんだ。人みたいに離れていったりなんかしないに決まってる。
街灯は胸に開いた小さな風穴を埋めるように強く言い聞かせて、虫たちの声に耳を傾けました。
「今日は空に雲ひとつありませんよ」
話しかけてくるのはアゲハモドキです。彼は翅を広げて、空をうっとりと眺めました。彼の言葉通り、空には薄い雲さえかかっていません。けれども、街灯には上手く空が見えませんでした。自分の橙色の光が空気に折り重なって層をなしているからです。
「ほら、見てください。お月様がとってもきれいだと思いませんか」
街灯は陶酔したような彼の声になんだか面白くないような心持ちがして、碌に月を見もしないで返事をしました。
「月の話をしてくれたのは君が初めてだ。僕の周りにいたんじゃ見にくいだろうに」
アゲハモドキは驚いたような素振りを見せました。
「いえ、そんなことないですよ。ここからでもきれいに見えますから」
「そう」
街灯はこれ以上彼と口を利きたくなくて、突き放すような口調を取りました。
しかし、アゲハモドキは街灯の気持ちに気づくどころか、ひたすらに空に浮かぶ月のみを見つめ続け、口を開きました。
「……どうして皆はお月様に行かないんだろう。皆、光が好きなはずなのに」
翅を羽ばたかせながら呟くアゲハモドキの言葉に、ざらっとした気持ちがわきあがってきます。それは、彼の言葉に頷いてやろうという思いとは正反対にある感情でした。それが心にふつりと開いてしまったすき間からじりじりと滲み出してきます。街灯はその感情が仄暗いものであることを承知していました。そして、それが紛うことなき自分の思いであることも十分に理解していたのです。
「……あんな月のどこがきれいだっていうんだ」
街灯がぼそりと呟いた言葉にアゲハモドキがやっと振り向きました。それでも街灯は構わず続けます。
「月なんて僕よりずっとぼんやりしているし、毎日、光っている場所も大きさも違ってる。挙げ句の果てには気まぐれを起こして姿を見せない時だってあるじゃないか」
突然、街灯が強い口調で話し始めたので、楽しくおしゃべりしていた虫たちもびっくりしたような表情を見せます。電球の光が一瞬消えて、また点きました。
「君、一度月まで行ってみたら良い。きっとその気まぐれに嫌気が差すだろうさ。……そんなのより、僕のほうがずっと優れてる! 僕は君たちが生まれるよりうんと前からここにいて、毎日、毎日、一晩だって休まずに君たちに付きあってるんだから!」
街灯はアゲハモドキをきっと睨みつけました。彼はたじたじになって翅を広げました。
「ぼ、僕……」
彼は何かを言いかけてから口を引き結ぶと、鱗粉を舞わせて飛んでゆきました。
「まあまあ、街灯さん。あの子の言ったことなんて気にすることありませんよ」
「そうそう。あいつ、変わり者だからなあ」
虫たちが街灯に寄り添うように言葉をかけてくれます。けれども、街灯はその言葉を上手に受け止めることができませんでした。
――皆に必要とされている、感謝されることをしているのに、そんなことを言うなんて失礼だ。
街灯はアゲハモドキへの怒りが収めきれず、その言葉を彼に投げつけてやりたい衝動にかられました。けれども、その思いが他の虫たちにも伝わってしまうのは嫌でした。さっきアゲハモドキに放った言葉に潜む自分の本当の気持ちを、虫たちに悟られてしまうのではないかと恐ろしく感じ、その気まずさから彼らの顔を見ることさえできやしませんでした。
「……ごめん。今日はこれでお開きにしてくれないか」
街灯にはそう言うのがやっとでした。自分でも驚くほど、その声はふるえていました。彼の願いに虫たちは振り返り、振り返りしながら、飛び立ってゆきます。
「気に病むことはないんだからね」
そう言って、最後の虫が姿を消しました。
虫たちの元気な声がなくなると、途端に闇が街灯をぎゅうぎゅうと押し込めてきて、声が詰まってしまいます。そのまま闇が自分までも覆ってしまうんじゃないかという恐怖と、いっそのこと覆い隠してくれれば良いという自棄が胸を焦がしました。
たったひとりで過ごす夜は永遠に続くかのように思われました。そしてやっと朝日が顔を出した頃、街灯はようやく目を閉じました。けれども、昔の思い出や幻ばかりが次々と現れては消えてゆきます。それはとても苦しく浅い眠りでした。
「それって本当のこと? ふもとの町が輝いてたって?」
街灯は聞き覚えのある声で目を開けました。
「本当だよ。昨日の夜に行ってきたもん」
刹那、街灯は冷水を浴びせられたかのように眠りから醒めました。夜にいつも来てくれるカミキリムシが二匹、こちらに背を向けて杉の梢にいるのでした。
「大通りに沿ってキラキラしててね、目がくらむほどの眩しさなんだ。仲間もたくさんいて、楽しそうなところだったよ」
はしゃいだ声が空気をふるわせます。街灯はぎゅっと目を瞑りました。
「すごい! 行ってみたいなあ。ねえ、他の皆も誘って行ってみるっていうのはどう?」
「ちょっと! 大きな声出さないでよ。彼が起きてしまったら……」
彼女の言葉の後にはっと息を呑む音が聞こえます。それからわずかな間をおいて、彼女らが飛び立つ音が聞こえました。
――ああ。
何かが壊れる音がします。それは街灯だけに届いて、ひどく惨めな気持ちにさせました。
どれほどの時間が経ったでしょう。空を見上げても、目を閉じても、何をしても、去っていった人やアゲハモドキ、カミキリムシたちが頭にちらついて離れません。けれども時間は彼に構わず流れてゆきます。
――明かりを灯さないと。
日没を目の端に捉え、街灯はいつものようにぽっと光を点け――。
「ああ! どうして」
喚きが森に木霊して消えました。光を灯したのにも関わらず、街灯の足元には薄い闇がたゆたっていました。それは逃げも恐れもせず、悠々と漂っているのです。
「どうしたの?」
アオドウガネが慌てたようにやってきました。
「影が……。僕の光が、弱く」
目を覆いたくなる光景に街灯の言葉は続きません。意味を成さない嘆きだけが溢れてゆきます。
「大丈夫、大丈夫だから。まだ貴方は明るいままだよ」
彼女はなぐさめるように街灯の上を歩きまわります。
「辛いことは全部はきだしてみなさいな。きっと心が軽くなるわ」
その言葉に街灯は何も答えられませんでした。何度も話そうとしてみるのですが、その度に情けなさに言葉が詰まってしまうのでした。
「私でいいなら、いつでも聞いてあげるから」
彼女は約束よと言って微笑みました。
じりじりと焼けるような暑さだった夏が過ぎ、赤や黄の木の葉が舞う秋がきました。日に日に、虫たちは街灯の下へ集まってこなくなりました。けれど、アオドウガネは暇さえあれば、街灯が眠っている昼間でもそばに来てくれます。街灯はほんの少し苦しみを紛らわせることができました。しかし、まだ街灯は彼女に胸の内を話すことができませんでした。それは虚勢でしたが、変わらず崩しがたいものだったのです。
その日の夜は冷たい風が吹いていました。日が沈んでも彼女は姿を見せません。寒くなってゆく度に彼女の元気が失われつつあったことは分かっていました。
――きっと、彼女はもう。
暗い予感に慣れてしまうくらいには、一方的な別れを幾度となく経験していました。けれども、胸はずきずきと傷んで、後悔を引き寄せてきます。
ぱちりと音がして前触れもなく光が消え、街灯はひゅっと息を呑みました。疾く、あらん限りの力を込めてぽっと光を灯します。けれども電球は嫌な音を立てながら、風に吹かれた蝋燭のように揺らぐ光を落とすばかりでした。
「冗談じゃない」
街灯は嘲るように乾いた笑いをもらします。
「たったひとりで最期を迎えるなんて」
街灯は口に出してから、はっとしました。いつの間にか、ここにいるのは街灯だけになっていたのです。もう前までの賑やかな声が響くことはありません。
「……寂しい」
誰かを必要としていたのは虫や人たちではなく自分だったのだと、ようやく気がつきました。去っていったのは彼らの方。けれども、それを引き止めずに心のなかで責めていたのは街灯でした。
――そばにいてほしい。そう言うだけだっただろうに。……でも、もう遅い。
街灯がふっと力を抜くと、橙色がだんだんと色彩を失ってゆきます。紺がそこまで迫ってきていて、街灯は逃げるように上を仰ぎました。そこには紺青に染まった空が途方もなく広がっています。
街灯は初めて自分の光が重ならない夜空を見ました。徐々に霞む視界の中で、金色に輝く月を見ました。その時、街灯の心に広がったのは羨望の気持ちでした。自分がここに立つより前から今まで、そしてこれからも、月は光り輝き続けるのでしょう。雲よりずっと高いところで、人々や虫たち、街灯を見つめ続けるのでしょう。月の、ただ高潔に在る様に、思わず喉が震えました。
「綺麗だ」
言葉とともに橙が夜に消えます。くすんだ白いガラスからは、もう微かな音さえしません。
残ったのは街灯だった一本の柱。朽ちた支柱に蔦が絡みつき、木々は両手を広げて錆びた笠を覆い隠します。そこには、ただ、北風が木の葉をさらさらと揺らす音が木霊するばかりでした。
作・谷まゆみ(高知県立山田高校2年)