書物問屋、わら市兵衛。平賀源内や杉田玄白などの革新的な本を次々と出版したことで知られています。「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では里見浩太朗さん演じる市兵衛。その温厚で深みのある人柄を慕う蔦重がたびたび彼のもとを訪れていますね。
今回の「『べらぼう』の地を歩く」は須原屋市兵衛の店があった江戸最大の商業地、日本橋を訪ねます。

※この記事は、NHK財団が制作する冊子「『べらぼう』+中央区」の取材をもとに構成したものです。


世界に目を向けた市兵衛

書物問屋「須原屋」はもともと江戸時代初期に初代・須原屋が開いたものです。幕府とのつながりがあった須原屋は江戸の出版業界最大手となり、市兵衛はいわゆるのれん分けで、同じ日本橋に店を開きます。屋号は「しんしょうどう」といいました。

市兵衛は学術書や辞典などを扱う一方、平賀源内『物類品隲ぶつるいひんしつ』や杉田玄白らの『解体新書』などの最先端の本を発行する革新的な板元はんもとであり、江戸の「知」における重要な役割を果たします。

林子平 [著]『三國通覽圖説』[2]  国立国会図書館デジタルコレクション ※トリミングして使用 二代目須原屋市兵衛が出版した。

史実では「初代の市兵衛は安永8年(1779)に没しています。その後は二代目が店を継いでいます」と教えてくれたのは、中央区教育委員会の学芸員、ましやまかずしげさん。
安永8年は老中・松平武元たけちかが亡くなった年。ということは、現在ドラマで描かれている時代には、すでに二代目に代替わりしているのですね。
ドラマでは、初代、二代目を同一人物として描いているようです。

上の写真は、天明6年(1786)二代目の市兵衛が出版したものです。はやしへいが朝鮮・琉球・蝦夷えぞ・無人島等と日本との距離や、各地域の地理や風俗について解説した、『三国通覧さんごくつうらんせつ』の付属地図。鎖国の世にあって、日本の外の情勢を世の中に知らしめます。翌天明7年(1787)には、ヨーロッパなど海外の情報や、オランダから日本への海路などを記した『紅毛雑こうもうざつ』(著・森島中良ちゅうりょう)なども発刊。二代目市兵衛は世界にその目を向けていたのです。


林子平 [著]『三國通覽圖説』[1],須原屋市兵衞,天明6 [1786]. 国立国会図書館デジタルコレクション ※トリミングして使用 ※赤枠は編集部

須原屋の店は現在の日本橋三越本店本館が建つあたり、中央通りに面した場所にありました。この近辺は当時、駿河町の呉服問屋「三井越後屋」(現在の三越の前身)や、朝に千両もの取引が行われると称された日本橋の魚河岸などもありました。活況を呈する繁華な一大商業地域で、日本橋のど真ん中でした。

現在の日本橋三越本店 ここに須原屋市兵衛の本屋があった。
広重『東都名所 駿河町〔之図〕』. 国立国会図書館デジタルコレクション ※トリミングして使用

広重が日本橋を描いた浮世絵を見ると当時のにぎわいがわかります。描かれているのは現在の「江戸桜通り」。右に見えるのは当時この場所にあった三井越後屋の暖簾のれん。このあたりは駿河国の富士山が望めたことから「駿河町」と呼ばれていました。

現在の「江戸桜通り」です。整然と並ぶ街路樹と重厚な建物の織り成す風景が印象的。残念ながら、富士山を拝むことはもうできませんが。 


江戸隋一の賑わいだった日本橋

須原屋が店を構えた日本橋あたりの土地は、いったいどのようにして江戸の中心地になったのでしょうか。中央区教育委員会の増山一成さんに聞きました。

増山さん 江戸城を拠点とする一大城下町の中心に位置した日本橋は、もともと水辺にあし原が広がっているような遠浅の土地でした。徳川家康は、自然の地理的条件や地形を生かしながら江戸城と、その城下町の建設を進めます。城にほど近い日本橋を中心に計画的な町割りがなされて、物流や商業の拠点となる町人地が形成されていきました。埋め立てをしながら、舟運・物流のための水路(掘割)を整備し、江戸のみなとから物資を運び入れる絶好の立地であるこの場所に橋(日本橋)を架けたわけです」

慶長9年(1604)には、日本橋を起点として東海道・甲州街道・奥州街道・日光街道・中山道の五街道が整備されます。

日本橋の北西詰めにある「日本国道路元標」レプリカ。実物は日本橋橋上の中央に設置されているため、通常は見ることができない。

増山さん 江戸幕府が開かれると、五街道を中心に陸路の諸街道、そして航路が整備された日本橋は、水陸交通の要所となり、京都や大坂、伊勢、近江などの商人も続々と進出。大店が立ち並ぶ中心市街地へと発展します。多くの町人が居住したので、今の日本橋人形町あたりには、芝居小屋などの娯楽施設が立ち並び、芝居町が形成されます。明暦3年(1657)の大火後に浅草千束村へ移転するまで、遊郭(元吉原)が置かれていたことはよく知られています」

日本橋は火災や地震など、多くの災害に遭いますが、再建・復興を繰り返し、まさに江戸の経済の中心として発展していきました。諸国から多くの物資や人が集まる随一の商業エリア、現在の日本橋の姿にもつながっていきます。


次に案内されたのは、日本橋(=橋)のたもとにある日本橋魚河岸跡地の説明版。

増山さん 魚河岸と言えば、築地を思い浮かべる人も多いと思いますが、江戸時代の「魚河岸」と言えば、まさに、ここ日本橋でした。江戸時代初期から大正12年(1923)の関東大震災前まで、300年以上にわたって大都市を支えたのです」

――魚河岸だったとは意外です。

増山さん 近海諸地方から輸送されてくる漁獲物が日本橋の魚河岸に集まり、朝から大変な活気に満ちあふれた取引の市場が開かれていたんです。魚河岸周辺には生鮮魚介類・塩干物、魚類加工品から漁具・船具までを扱う多くの問屋・卸商が集まっていました」

――当時の賑わいが伝わってきますね。

増山さん ちなみに、“いなせ”という言葉は、一説には、ここで働く魚河岸の若者が結ったまげの髪形が、ボラの幼魚“いな”の背の形に似ていたことが由来とされています。威勢が良くてさっぱりとした魚河岸の若衆たちの江戸っ子らしい気質をいきで“いなせ”と言い表すのです」

一立斎広重『東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図』,蔦屋吉蔵. 国立国会図書館デジタルコレクション

話を須原屋に戻しましょう。

増山さん 初代、二代目の須原屋市兵衛は、国外の医学に関わる書物、諸外国の情報や地図といった先進的なものを世に出したことに注目されがちですが、手掛けた出版物の大半は、俳諧書・漢詩・書道書・往来物・医学書など、安定した売れ行きが見込める学問や実用的な書物でした。日本の外の知識・情報に関するチャレンジングな出版を可能にしたのは、日本橋商人らしい堅実な経営基盤があったからこそだと思います」

二代目市兵衛はその後、松平定信が発令した「出版統制令」によって、大きなダメージを受けます。『三国通覧図説』も発禁処分となりました。さらには蔦重の死後、江戸三大火の一つとも言われる「文化の大火」(文化3年[1806])による被害も受けるなど、その晩年は平穏なものではなかったようです。

蔦重が生きた時代、出版界に多大な功績を残した須原屋市兵衛。初代、二代目ともに、先見の明をもって革新的な本を世にだし、知識を広めた人物として後世に名をとどめています。


最後に、耳より情報です。
東京メトロ「三越前」駅のコンコースに、日本橋~今川橋まで、現在の中央通りを詳細に描いた幅17メートルもの長さの絵巻「だいしょうらん」の複製が展示されています。
描かれたのは徳川家斉いえなりの時代、文化2年(1805)頃です(作者は不明)。これを見ると須原屋市兵衛の店があった場所も確認できます。

絵巻の一部を写真にとりました。中央左寄り「本屋・しょ」と書かれた箱看板が見えます。その向こうにあるのが市兵衛の店です。
絵巻の中ではたくさんの人が通りを往来していますが、その数、実に1,600人以上。よぉく見ると本の束を背負った「貸本屋」も歩いています。もし、この絵巻を見かけたら、是非、見つけてください。


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(取材・文 平岡大典[NHK財団])
(取材協力:中央区教育委員会、中央区・中央区観光商業まつり実行委員会)

主要参考文献・論文
今田洋三『江戸の本屋さん 近世文化史の側面』平凡社ライブラリー
『江戸散歩・東京散歩』成美堂出版
松田泰代. (2010). 蔵版目録の分析による刷年代識別法 : 書肆須原屋市兵衛の蔵版目録を事例として. 書物・出版と社会変容, 8, 69–95.
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼意次の謎』PHP新書 


この記事は、NHK財団が制作したPR冊子「『べらぼう』+中央区」のために取材した際の情報などをもとに構成しました。
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