3月13日からスタートしたプレミアムドラマ「しずかちゃんとパパ」は、聴覚障がいのある父・純介(笑福亭鶴瓶)と2人で暮らす娘・静(吉岡里帆)が、少々変わり者のデベロッパー・圭一(中島裕翔)と織りなす笑いと涙の物語。

〈第1回のあらすじ〉
静は幼いころから父の耳や口の代わりを担ってきたため、相手をじっと見つめ、身ぶり手ぶりを交えて話す癖がある。それが「こび」や「がさつ」に見えてしまい、傷つくこともたびたび。

そんなある日、静はバイト先のファミレスで接客した圭一が、ケバブ店の前で困っている場面に出くわして……。


ドラマ「愛していると言ってくれ」「オレンジデイズ」(TBS系)、「君の手がささやいている」(テレビ朝日系)、映画『聲の形』など、聴覚障がいを描いた作品は数多くあるが、私がいつも注目するのは、ろうの登場人物に対する周囲の接し方だ。

「共生社会」や「多様性」がうたわれるようになったいま、「しずかちゃんとパパ」ではどのように描かれるのか、注目してみたい――。

劇中では、静や純介たちの住む町では「スマートシティー計画」と称する開発計画が持ち上がっていた。この計画に抗議すべく、町の人々は“作戦会議”を催すことに。

その席で純介は、俺にも言いたいことがある! とばかりに立ち上がり一同の視線を集める。静も立ち上がり、純介の手話を訳すと……!?
「(開発には)絶対反対だ!」という、なんて事はない内容。

町の人々は「なんだそんなことか」と、ガクッと肩を落とす。
さらには「注目して損したわ!」「返せ! 俺らの注目!」というツッコミも。

このやりとりに見える町の人々との距離がなんとも心地よい。

ろう者としての純介ではなく、聴覚障がいという特徴を持ったひとりの人間として、町の人々が向き合っているのが伝わってくる。
町の人々は、純介を一切“特別扱い”していない。聴覚障がいは、純介を形成する要素の一つでしかないのだ。

純介は、ごく自然にこのコミュニティーの一員として存在している。
ただ私は、ここに“プラスの違和感”を感じてしまう。

かつて、私は「場面かんもく症」を抱える子どもであった。
(場面緘黙症:不安症の一種。園や学校など特定の場所・状況において話すことができなくなる状態を指す。)

「なんで人前に出ると声が出なくなるんだろう……」
「どうして私だけこんなことに……」と苦しみもがいていた時期がある。

周囲から見れば、当時の私は“よく分からない子”だったに違いない。
担任の先生も気をつかってくださり、点呼や音読の時間は、私が声を出さなくてもいいように配慮してくれた。

けれど、特別扱いがありがたいと思う反面、それが嫌でたまらなかった。
自分が異質な存在であることが、周りの配慮によってさらに浮き彫りになるように感じていた。

「あの子には話しかけないほうがいいよね……」
そんな暗黙の了解が漂うクラスは、決して居心地の良いものではない。
「あの子はしゃべれないから」という諦めを含んだ周囲の気づかいが、幼心に悲しかった。

そんな中、ただひとり毎日「おはよう!」と声をかけてくれる友人がいた。
彼女は私を“特別扱い”せず、皆と同じように接してくれたのだ。

私は彼女の目を見るのが精いっぱいで、「おはよう」と返すことすらできずにいたが、それがどれほど心の支えになっていたことか――。

障がいはあるが、町の人から一切“特別扱い”されない純介。
ドラマで描かれる関係性は理想だが、皆が同様の意識をもって障がい者と接することはなかなかハードルが高いように思う。

それは「ダイバーシティー」という響きのよい言葉を知り、「多様性」が大切であると学んでも、実際に行動で具体化しにくいのと似ている。

ドラマだからこそ感じる、“プラスの違和感”。
共生社会の実現を目指すのならば、そこを埋める配慮が必要ではないだろうか。
“特別扱い”しないことは、確かにその一歩かもしれない。

▼「場面緘黙症」について詳しくはこちら▼
https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/105/

1998年、東京都生まれ。大学院では「狂言に描かれる障がい者像と笑い」について研究。身体性別による差別と、それを取り巻く社会構造についても大きな関心を寄せる。女性の人権活動に多数参加。