月刊誌『ラジオ深夜便』にて、2022年4月号より連載している「渡辺俊雄の映画が教えてくれたこと」をステラnetにて特別掲載。「ラジオ深夜便」の創設に携わり、現在「ラジオ深夜便」の「真夜中の映画ばなし」に出演中の渡辺俊雄が、こよなく愛するラジオと映画を熱く語る。

中学生になった。クラブ活動はどこに入るか。アナウンサーになるには「放送部」が近道かと思ったが、野球以外のスポーツを経験しようと、当時人気急上昇だったバレーボール部の門をたたいた。部室には漢字で「はいきゅう部」と書かれていた。今、海外でも大人気のバレーボール漫画の題名も『ハイキュー! !』だ。

新人は二人一組で来る日も来る日もパスの練習を繰り返す。まずは100回落とさずに続け、やがて1000回に達し、途中で落とすとまた最初から数え直しだ。さらに当時、だいまつひろふみ監督率いる日紡貝塚(注)が柔道の受け身から編み出した〝回転レシーブ〞も必死に練習した。

(注)…大日本紡績(現・ユニチカ)の実業団女子バレーボールチーム。スパルタ指導で知られた大松監督は東京五輪でも監督を務め、“東洋の魔女”を優勝へと導いた。

2年生の秋、目黒区の新人戦に出場した。僕ら目黒十中が準決勝へ進出すると、とんでもないチームと対戦することになる。当時、東京都最強を誇った目黒十一中だ。中学生なのに180センチ台の選手をズラリと前衛にそろえ、その中心にいたのが、4年後のメキシコオリンピックに出場する嶋岡健治選手だ。わがチームはほとんど抵抗もできないまま完敗......。

悔しかったので、翌年自校での練習試合を申し込んだ。しかし、体育館で彼らの練習が始まった瞬間、後悔した。嶋岡選手が床にたたきつけたボールがすごい勢いで高い天井にぶち当たったのだ! あれをまともに受けたらえらいことになる。そこでチームメートと円陣を組み、「無理をするのはやめよう。けがだけはしないようにしようぜ!」。

試合が始まると、「嶋岡来る!」の報を聞きつけたのか、呼んでもいないのに大勢の女子が体育館を埋め尽くした。かくして、ホームのはずがアウェーとなり、「嶋岡さ〜ん」の歓声に包まれ、我々は惨敗した。

そんな中学3年の秋、1964年10月10日、東京オリンピックが華やかに幕を開けた。連日、テレビとラジオの実況放送にくぎづけになった。開会式のきたせいろうアナウンサーの「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、すばらしい秋日和でございます」や、女子バレーボール決勝の鈴木ぶんアナウンサーの「金メダルポイントであります!」が特に印象的だった。

さらに、翌年公開された市川こん監督の記録映画『東京オリンピック』がすばらしかった。開会式の入場行進の場面に鈴木文弥アナのラジオの実況音声をかぶせていたのに感動した。映像美の巨匠と称された市川監督らしく、競技の結果よりも、選手の動きや美しさを強調した結果、公開後、「記録か芸術か」と論争を巻き起こしたが、映画好きの少年の目には、まごうことなき傑作だと映った。

渡辺俊雄(わたなべ・としお)
1949(昭和24)年、東京生まれ。’72年NHKにアナウンサーとして入局。地方局に勤務後、’88年東京ラジオセンターへ。「ラジオ深夜便」の創設に携わったあと、アナウンス室を経て「衛星映画劇場」支配人に就任。「ラジオ深夜便」の「真夜中の映画ばなし」に出演中。

(月刊誌『ラジオ深夜便』2022年11月号より)

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