想像してほしい。あなたの家族のイメージは、一体どのようなものか。
家族の定義とは、何だろうか――。「恋せぬふたり」の第2回を見て、私はあらためて「家族」について考えさせられた。

「私と、恋愛感情抜きで家族になりませんか?」
「僕のことなめてます?」
さく(岸井ゆきの)からの思わぬ提案に戸惑う高橋(高橋一生)だったが、お試しで一緒に暮らすことを受け入れる。ところがある日、咲子の母に、男性と一緒に暮らしていることを気づかれてしまう。そこでふたりは、“恋人のふり”をして咲子の家族と会うことに――。

「これから普通に幸せになればいいんだ」「ふたりで普通の家庭を作って……」という、何の気なしに咲子と高橋に向けられた家族のことば。それに対し、「普通の幸せって何?」「普通の家庭って何?」と咲子の思いがあふれ出る。「私、アロマンティックでアセクシュアルなの!」とカミングアウトする咲子。動揺を隠せない家族は……というのが第2回のあらすじだ。

家族とは、どのような姿が正しいのか。家族のあり方は、誰が決めるものか――。
劇中に登場する「恋愛感情のない男女が家族になる理由ある?」というセリフに、LGBTQの当事者として⽣きる私は2つの疑問が生じた。

1「男女でなければ、家族になれないのだろうか?」
現在、日本では同性婚が認められていない。認められない理由にはさまざまな意見や考えがあるのだろうが、私は純粋に、なぜダメなのか? なぜ愛の形を第三者に否定されるのか? と疑問に感じてしまう。現在、自治体で「パートナーシップ条例」などの動きが出ていることは、少しずつ「性」にとらわれない社会になっていくことを期待できるが、その道のりは長そうだ。

2「家族になる理由に恋愛感情が必要なのだろうか?」
愛がなければ家族になる意味はない、と私は思わない。居心地がいい存在、自分を隠さずにいられる存在、その延長に家族という形を思い描いてもいいのではないか。「性」と「愛」について、もっと柔軟に受け入れることができる社会になれば、「家族」のあり方もまた自由に選択することができ、今より生きやすくなる人が増えるはずだ。

もう1つ、今回は“カミングアウト”についても考えさせられた。
劇中では、家族への憤りとともにカミングアウトする咲子の姿が描かれた。私が家族にカミングアウトをしたときも同様、けんかの最中でのことだった。思わず咲子と自分が重なり、痛いほど彼女の気持ちが伝わってきた。

「わかってほしい人にわかってもらえない……」
「伝えたいことが伝わらない……」
「自分を否定されている気持ちになる……」

カミングアウトは、何度経験しても慣れるものではない。実に、怖いものなのだ。高橋が、咲子のカミングアウトを受け入れない母に対し言ったセリフが胸をついた。

「納得も理解もしなくていいんじゃないですかね。ただ、なんでこういうときって、こういう人間もいる、こういうこともあるって、話終わらないんですかね」

この言葉に救われた人はきっと多いと思う。実際、私自身、カミングアウトするときはいつも、

「理解はしなくていいです、ただこれが事実です」という言葉を添えている。

家族にカミングアウトしたことがある当事者や、その家族の方にとっては重苦しく感じる部分もあったが、逆に共感できる部分も多かった第2回。現代社会における「家族のあり方」や「愛の形」について、考えさせてくれるセレンディピティーとなった。

1999年、茨城県生まれ。女子校出身のトランスジェンダー。当事者としての経験をもとに、理解ある社会の実現に向けて当事者から性に悩み戸惑う方、それを支えようとする方への考えを発信する活動に従事する。