異文化を学ぶことが世界の平和につながる信念を貫き日本の「宝物」である芸術を世界に届けたの画像
ベアテはNYでプロデューサーとして活躍。20世紀のレジェンドになった。
携帯端末に目まぐるしく流れ来るニュースの数々。刻一刻と移り変わる世界情勢。世界とは何か。歴史とは何か——。時代を読み解き、今このときを生きる審美眼を養う特別コラム第14回。
執筆するのは、NHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」をはじめ、多くの名作ドキュメンタリーを手がけてきた映像ディレクター・著作家の貴志謙介氏。全30回(予定)にわたり、ウクライナを軸に世界情勢とその背景にある歴史をひもといてゆく。

あのころ、サン・フランシスコで

1939年 はじめてアメリカへ来たころを忘れない。
おどろいたのは、日本についての知識が信じられないほどお粗末だったこと。

私は留学生だった。「日本から来た」と言うと、
名門大学のエリート学生でさえ、真顔でバカなことを訊いてくる。

「日本ではチョンマゲという変な髪型をしているのでしょう?」
「ハラキリ見たことある?」
「樹の上に小屋を掛けたり、洞窟で暮らしているんでしょ?」

東京で仕立てた私の洋服を見て、
「こんな上等なものが日本にあるはずがない!」

・・・もうウンザリ。
日本についてのあまりの無知、偏見に満ちた質問に、怒りをおぼえた。
アメリカ人の大半は、日本には文化などないと思っている。

わたしは、自分が半分以上、日本人になっているのに気づいた。
自分のふるさとを侮辱されるのは耐えられない。

戦争がおわっても、アメリカ人の日本認識は変わらなかった。
いやむしろ、悪化した。
日本人は、「竹槍でアメリカと戦った愚かな野蛮人」にすぎない、と。

日本やアジアの文化は、西洋文化とおなじ厚みをもった文化なのに、
そのことを知るアメリカ人はほとんどいなかった。
アメリカ人の悪しき世界認識を、くつがえさなくてはならない。

―ベアテ・シロタの回想から


戦後40年間、ベアテはアメリカで孤軍奮闘、洗練された日本の文化を紹介することに人生を賭けました。
とりわけ舞台芸術には、心血を注ぎました。最高の舞台芸術には、文化の違いを超えて、人の心を瞬時に通い合わせる力がある。ベアテの信念でした。

ベアテが企画した公演は、能、狂言、歌舞伎、地唄舞、人形浄瑠璃、舞楽、声明といった古典芸能から、モダン・ダンス、舞踏などの前衛芸術におよびます。
日本文化の奥深さを知ったアメリカ人は驚嘆し、日本人に敬意をもちました。

「日本では憲法のことばかりクローズアップされてしまうけれども、私のほんとうの仕事は、アメリカとアジアの文化交流」とベアテは言います。

ベアテの恩恵を受けたのは日本人ばかりではありません。
偉大なアメリカのアーティストの多くが、最高の日本芸術に接して衝撃を受け、あたらしい20世紀芸術を開拓していきました。

日本が経済成長に猛進し、自然を破壊し、公害をまきちらし、伝統文化をないがしろにしていたころ、ベアテはひたすら世界最高の日本の芸術をアメリカから世界に、懸命に発信し続けていたのです。まさにパイオニアです。

ユダヤ系ウクライナ人の天才音楽家、レオ・シロタの娘。物心ついたときから超一流の芸術家に接し、ホンモノの芸術をみわける感性をもっていました。

日本文化の伝道者としてベアテほどすぐれた適任者はかんがえられません。
わたしたちはベアテの偉大な貢献にふかく感謝すべきではないでしょうか。

70年前に、時計の針をもどしましょう。戦後アメリカへ渡ったベアテは、子育てに追われながら、あたらしい仕事をさがしていました。


留学生の「守護神」

ベアテの才能が開花したのは、1954年、NYのジャパン・ソサエティに職をえたことがきっかけです。日米の文化交流をめざして設立されたNPOです。

最初の仕事は「留学生たちの相談係」。学生の悩みをきき、進学先やアルバイトを紹介します。難問は学費でした。日本は貧しく、奨学金だけでは足りません。

ベアテは一計を案じ、ジャパン・ソサエティの主催で、アメリカの大学のコンサートに学生を売り込み、才能を発揮する機会を作りました。
一回の演奏料が15ドルくらい。生活費の足しとしては魅力的な額です。 

それでも学生の生活は苦しい。ベアテは、アート専攻の学生に同情しました。
せっかくアメリカに来たのに、最高の芸術にふれる余裕がありません。

「貧しい留学生たちに一流のレクチュアや演奏が聴けるチャンスを与えたい。
第一級のアーチストになるには、『最高のもの』を知っている必要があります」

偉大なピアニストであった父レオ・シロタから学んだ知恵でした。

ベアテはロックフェラー夫人を説得、邸宅の一室を無料で借りました。
そして最高の講師を集めるため、NYを奔走しました。
アクターズ・スタジオの創始者であるリー・ストラスバーグ。ダンスはマース・
カニンガム。音楽はジョン・ケージ。
最先端の芸術を凝縮したおどろくべきサロンが忽然とあらわれました。

*リー・ストラスバーグ…アメリカ最高の演技指導者。ウクライナ出身。
最新メソッドで名優を育てた。例えば、マーロン・ブランド、
アル・パチーノ、マリリン・モンロー、ジェームス・ディーン、
ジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロ。
*マース・カニンガム…半世紀にわたって最前線で活躍したダンサー、振付師。
ジョン・ケージ、アンディ・ウォーホルとコラボ。
2005年高松宮記念世界文化賞。
*ジョン・ケージ…20世紀の芸術に革命的な影響を与えた音楽家、詩人。

このとき、ベアテの支援を受けた学生のなかに、若き日のいちやなぎとしがいました。
日本を代表する偉大な作曲家です。惜しくも今月7日、89歳で逝去されました。

*一柳慧…1985年フランス芸術文化勲章。尾高賞を5度受賞。2018年文化勲章。

一柳慧は「ベアテ・スクール」でジョン・ケージと出会い、深く共鳴しました。
帰国後、日本の音楽界に劇的な「ケージ・ショック」をもたらし、武満徹はじめ戦後の作曲家に、革命的な影響をあたえることになります。 

当時、一柳慧のパートナーであったオノ・ヨーコもベアテの支援する学生でした。ベアテはヨーコと意気投合し、彼女の才能を世に知らしめる触媒になりました。

ちなみに、のちに前衛芸術家として成功したヨーコは、ビートルズのジョン・レノンと結ばれます。ベアテはふたりを自宅に招いて祝福しました。

ベアテがまいた種子から多くの才能が育ち、出会い、響きあって、大樹が成長するように、創造性あふれる世界が枝をのばしていったのです。

ジョンとヨーコはアート・シーンと音楽界を結ぶ「触媒」だった。


日本の「宝物」は芸術

1958年、ジャパン・ソサエティーに舞台芸術部門ができ、ベアテは初代ディレクターに抜てきされます。ずば抜けた企画力、交渉力、芸術をめぐる造詣の深さ。ベアテは、35歳にして天職にめぐりあったのです。

翌年、アーティスト・イン・レジデンス(有望な作家に長期滞在してもらい、制作を支援)を試み、一年間、版画家のむなかたこうをアメリカに招きました。

棟方の人柄のあたたかさ、作品のすばらしさ。ベアテは深く心をうごかされ、棟方芸術をなんとしてもアメリカ人に広く伝えようと決意します。

ベアテは棟方のレクチュアに版画制作の実演をとりいれました。棟方が作品にむかう真摯な姿は、ストレートにアメリカ人の心を打ちました。
レクチュアは大好評で、全米でテレビ出演の依頼があいつぎました。

いま棟方志功は、20世紀美術を代表する世界的巨匠として、ゆるぎない尊敬を得ています。ベアテは棟方芸術を世界に知らしめる推進力になったのです。

ベアテと棟方志功。生涯、家族ぐるみのつきあいが続いた。

「棟方先生は苦労人だった。留学生たちが物価の高いNYで苦しんでいるのを知ると、ジャパン・ソサエティに作品を寄付してくださった。売り上げ金は学生たちを助ける基金となった。若い頃、赤貧だった先生は、学生たちの貧乏を他人事とは思えなかった」ベアテは、生涯、棟方を敬愛しました。

日本の宝石ともいうべき芸術家を、アメリカ、そして世界に広く知らしめたい。
ベアテは、最高の芸術家に次々と声をかけました。

盲目の琴の天才演奏家、衛藤公男もそのひとり。
1960年、舞台芸術の殿堂「リンカーン・センター」のオープンにあわせ、ベアテは、アメリカを代表する指揮者ストコフスキーを口説き、衛藤とフィラデルフィア交響楽団を共演させる野心的な企画を実現しました。

日本で邦楽に親しんでいたベアテは、こう語っています。
「私はこの偉大な演奏家を有名にしたかった」「琴という楽器をアメリカ人に知
らせたかった」「東洋の音楽のために何か貢献したかった」

衛藤とオーケストラの共演は大成功。全米15か所で公演され、琴の音色の美しさに、アメリカの観客は熱狂しました。

*不世出の天才・衛藤公雄の演奏が下記のサイトで聴けます。
https://www.youtube.com/watch?v=fYRx0uPMULw

ベアテの仕事ぶりはフォード財団の目に留まり、多額の援助を獲得します。
60年代、ベアテの創造性に、拍車がかかります。狂言の野村万蔵、生け花の勅使河原てしがはら蒼風そうふう、地唄舞の花柳はなやぎ寿々紫すずしらをまねき、続々とプロデュース。

「ジャパン・ソサエティにやってくる日本人は、それぞれの分野の第一人者でした。かれらのパフォーマンスは、息を呑むほどパーフェクト。人間としても優れたひとたちでした。このすばらしい文化を、わがもの顔のアメリカ人に伝えなければならない。それが日本で育った私の使命であるように思えました」

狂言の野村万蔵(六世)の公演では、コロンビア大学のドナルド・キーン教授が協力。NYの演劇人が日本の芸能にインスパイアされるきっかけをつくりました。

生け花の勅使河原蒼風にたのまれてベアテが苦労して調達した巨木は、みごとな造形芸術に姿を変え、リンカーン・センターを飾りました。

地唄舞の花柳寿々紫に、アメリカを代表する演出家ロバート・ウィルソンを紹介したのもベアテです。ふたりの芸術家は共演をかさね、前人未到の境地を開いていきます。ベアテは、日米の芸術家の交流にも熱心でした。

*花柳寿々紫…大阪出身。古典とコンテンポラリー・ダンスを自在に往来。コレオグラファー
としても国際的に活躍した。天才演出家のロバート・ウィルソン、
デヴィッド・バーン(元トーキング・ヘッズ)とのコラボは有名。

ベアテは、仕事を通じて、どんどん人脈を広げました。
大野一雄(舞踏)、草間彌生、猪熊弦一郎(現代美術)、流政之(彫刻)、丹下健三(建築)と信頼関係をむすび、武満徹はじめNYを訪れる芸術家には、アメリカの芸術家との橋渡しをしました。
ベアテの言う通り、「日本の芸術家がアメリカにもたらしたのは、新鮮で影響力のおおきい、かけがえのないもの」でした。


ベアテの大冒険

1960年代、世界は冷戦につつまれ、米ソの代理戦争が激化していました。
キューバ危機、そしてベトナム戦争。人類は悲惨な世界大戦を二度も経験し
たにもかかわらず、いまだ平和から遠く離れ、憎悪を再生産していました。

ベトナム戦争(1964-1975)の犠牲者は800万人。米軍の戦死者は50万人を超える。

戦争の世紀に翻弄され、ジェノサイドで家族を失ったシロタ家の一員として、ベアテは、ベトナム戦争の大量虐殺に、深い悲しみと憤りを感じていました。

「私が日本でかかわった憲法は『平和憲法』とよばれていました。それもあって、平和は私にとって重要な関心ごとでした」とベアテは言います。

平和を推進するには、「異なる民族のあいだに橋をかけ、連帯をもたらす」努力が欠かせない。それには、「異なる文化を理解することから始めることが一番良い」「異文化を学ぶことが世界の平和につながる」。ベアテの信念でした。

このころ、ベアテは日本と世界の文化交流を拡大させようと願い、NYの日本商社を片端からたずねました。しかし協力は得られませんでした。

日本は高度成長をへて莫大な貿易黒字をためこんでいましたが、企業はお金儲けにしか関心がなく、文化交流のもたらす意義を理解できなかったのです。

しかし1970年代に入ると、ベアテの活動は、飛躍的に拡大します。
姉妹組織アジア・ソサエティの舞台芸術部長を兼務することになったのです。

毎年三回の公演の企画を要請されました。そのうちの一回は日本ですが、あとの二回は、広大なアジアで「宝物」をみつけなくてはなりません。

行く先は、奥地、危険地帯ばかり。ベアテによれば、「ホンモノは奥地にある」
「地道に歩いてこそ埋もれていた芸を見つけだすことができる」
のです。

1970年代、ベアテは、毎年六週間、アジアの秘境へひとりで出かけました。

台湾では山奥で、先住民の影芝居と出会い、インドのマドラスでは舞踊、バリ島ではジマット、イランではパルワネ・ホッテレイの歌声、韓国では仮面舞踏のポクサンと出会いました。樺太からはシャーマニズムの音楽を招聘。スミソニアン・ミュージアムで、「シベリア展」も開催しました。

いちばん思い出に残る公演は、1974年、カーネギーホールと提携して大成功をおさめた淡路人形浄瑠璃です。
500年の伝統をもつ伝統芸能。カーネギーホールの初演も、ワシントン、ノースカロライナ、どこも大入り満員でした。いまも海外からの招待が絶えません。

淡路人形座

*淡路人形座のイメージ映像
https://www.youtube.com/watch?v=iuNnwqWNrD4

ベアテの口癖はこうです。「国と国とが友好をむすぶためには、偉い政治家が行き来してもあまり効果がない」「庶民レベルの人たちが行き来してこそ、理解が深まる」「それには、言葉の壁のない民俗芸能はうってつけです」

とはいえ、苦闘の連続です。シベリアやモンゴルでは、凍死しかけました。
チベットやブータンでは高山病に苦しみ、辺境の土地で、ゲリラの闘争に巻き込まれそうになったこともあります。

それでもベアテは、憑かれたように、奥地へ入っていきました。
運よく「宝物」と出会ったときは、魂がふるえました。

69歳で引退するまでに22か国をおとずれ、34の芸能集団をアメリカに招へい。
全米42州、400都市以上をツアー。動員した観客数は150万人におよびます。

公演の全コレクションは、約30本のビデオテープと5本のフィルム、9枚のレコードにおさめられ、公共テレビで放送され、全米の大学で視聴されています。

ベアテが企画するNYの公演には、アートの最前線をゆく芸術家がつめかけるようになりました。多くのすぐれた芸術家が、日本やアジアからやってきたホンモノの芸能に接し、はかりしれないほど大きな衝撃を受けました。

ピーター・セラーズもそのひとり。モーツァルトのオペラをはじめ、先鋭的な舞台づくりで知られ、世界でもっとも人気の高い演出家のひとりです。
かれはベアテにこう感謝しました。

「ぼくにとってあなたはレジェンド(伝説)です。若き日、あなたがプロデュースされた公演を観て、人生が変わりました」

メレディス・モンク(声のパフォーマンス)、マーサ・グレアム(ダンス)、ロバート・ウィルソン(舞台芸術)、フィリップ・グラス(ミニマル音楽)、ジョン・ケージ(実験音楽)、デヴィッド・バーン(ロック)ら現代芸術の偉大な先駆者たちは、ベアテが企画した公演から強力な霊感と恩恵を得ています。

アーティストばかりではありません。ベアテの尽力によって、一般の人々の、アジア文化、日本文化への認識も、大きく変わりました。まさにベアテの奇跡です。


人生の第三幕へ

1991年、ベアテは68歳で引退しました。送別パーティーには、NYの大物芸術家がつめかけました。「マイ・ウェイ」の演奏に合わせて、伝説的な日本人の舞踏家・大野一雄がベアテのために踊り、感動がひろがりました。

*大野一雄…前衛舞踏家。みずからの舞踏をBUTOHと名づけ世界に広めた。
海外できわめて高く評価される20世紀芸術のレジェンド。

激務から解放されたベアテのもとに、日本から頻繁に電話がかってきました。

半世紀前にベアテの起草した憲法24条「男女平等」条項が、保守派の攻撃によって、危機にさらされているというのです。
ベアテは日本の女性たちのよびかけに応え、東京へむかう飛行機にのりました。
第15回へ続く)

【FEEL ! WORLD】
今年のノーベル平和賞

日本国憲法の人権条項を起草したベアテ。日米の文化交流に尽力したベアテ。
まるで、ふたりのベアテがいるかのようです。
けれども底流ではつながっています。
芸術家にとってもっとも大切な自由は、人権なき世界では、実現できません。

10月7日、ノーベル平和賞の発表がありました。
ベラルーシの人権活動家ビアリアツキ氏、ウクライナの人権団体CCL(市民自由センター)、ロシアの人権団体「メモリアル」が受賞しました。

いずれも「戦争犯罪や人権侵害、権力の乱用」を記録し、「人権と民主主義と平和共存のすぐれた推進者」として活動してきた人たちです。

とりわけ、「メモリアル」の受賞には、ウクライナとロシアの歴史をめぐる重要なメッセージがこめられています。

「メモリアル」はロシアで最も古い人権団体の一つで、1989年の創設以降、スターリン時代の「抹消された記憶」を発掘しつづけてきました。

たとえば、1930年代からスターリンと秘密警察は、ウクライナの農民を奴隷のように搾取し、330万人を飢え死にさせました(ホロドモール)。
ウクライナの知識人を強制収容所に送り、大量虐殺しました(大テロル)。
ウクライナ語や民族文化を独立運動の温床とみなし、徹底的に抑圧しました。
伝統音楽の担い手を大量に虐殺したこともあります。

ソ連はこうした残虐行為の記憶をすべて隠ぺい、抹消し、自分たちに都合のよい歴史にかきかえています。ロシア人の多くは、ソ連が捏造した歴史をいまだに真実と信じています。

これでは、愚劣な歴史のくりかえしです。「メモリアル」はソ連の人権蹂躙を検証し、真実の歴史を伝え、二度と悲劇がおきないよう、権力を監視する努力を続けてきたのです。

しかしロシア当局は「メモリアル」を「外国のエージェント」に指定。2021年12月28日には、「メモリアル」の解散を命じました。
「外国のエージェント」というレッテル貼りは、スターリン時代と変わりません。

プーチンの行為も、70年にわたる秘密警察の犯罪の再演です。搾取、拷問、性暴力、虐殺、監視、強制移送、飢餓作戦、歴史の捏造、洗脳、戦争犯罪。

今回の侵攻で、子供をふくめて130万人のウクライナ人が、ロシアに拉致されています。ウクライナの人口の3%です。
プーチンは歴史を捏造、ウクライナをロシアの一部と主張しています。
もしウクライナが独立を失えば、暗黒の時代がもどってくるでしょう。

歴史家トニー・ジャッドの言うように、「ロシア中心のご都合主義の世界観は、ソビエトの圧政に苦しんでいた人々にはまったく共有されていない」のです。

ノーベル平和賞のメッセージは、プーチンのゆがんだ歴史観にむけられています。プーチンの野望こそ、ウクライナ侵攻の原因のひとつだからです。

*Dear Mr.President
「拝啓 大統領様」

https://www.youtube.com/watch?v=AYpQi1-ztMI

ノルウェーの歌手がウクライナ支援の気持ちをこめて歌っています。
もとは「PINK」の名曲。
イラク戦争におけるブッシュ大統領の愚行への怒りが表現されていますが、歌詞はそのまま、独裁者プーチンへの怒りにかさなりあう。
世界を地獄にみちびく権力者の野望。いつまで繰り返されるのでしょうか。
子供たちの遊び場にミサイルをうちこむなど、民間人を標的にした残忍きわまるロシアの戦争犯罪によって、多くのウクライナ人が家族をうしなう悲劇がつづいています。歌詞の一部をピックアップします。

拝啓 大統領様

ご一緒に歩きませんか
肩書なしの ただの人間として 

質問してもよろしいですか
鏡に映る自分の姿をみて どう思われますか?

眠れますか? 
泣き叫ぶ人々がいるのに

夢をみることができますか?
戦場では、一瞬でわが子を失う母親がいるのに

どうしてあなたは胸をはって歩けるのですか?

わたしたちは馬鹿じゃない
わたしたちは盲目じゃない

いつまで人々を牢獄に閉じ込めるつもりですか?
あなたが地獄への道を着々と準備しているのに

ご存じですか?
爆弾で破壊された家を建て直すほど
辛い仕事はないってことを

あなたはなにも知らない
あなたはなにもわかっていない
ほんとうに辛いとは どういうことかを

京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。