聞き手 遠田恵子
私、母子家庭なので死ねない
——交通事故のときはどういう状況だったんでしょうか?
キャロット 当時、昼間は美容師として自分のサロンを経営して、夜はトラックの運転手として働いていました。中学二年生の娘と二人暮らしでしたので、私に何かあったときに備えて少しでも貯金しようと思って、ダブルワークをしていたんです。
ある日の朝方、トラックで走行中に前方から別の大型トラックがセンターラインを越えて私の方へ向かってきたんです。道が狭かったので避けきれず、ほぼ正面衝突のような形でぶつかって、病院に救急搬送されました。
——運ばれる際、どんなことを考えていたんでしょうか?
キャロット 「もう、どうしよう」と思って。救急隊の方に「私、母子家庭なので死ねないんで、命だけは助けてください」とお願いし続けたんですが、「分かったから静かにしてね」と言われて(笑)。
病院で、右腕は肘の上から切断することになりました。
——右足の切断は、しばらくたってからなんですか?
キャロット 事故から約2か月後です。先生から「このままでは悪化して切断する確率が高い。切断してリハビリすれば、早いうちに社会復帰できる」と勧められまして。
そしたら、その場にいた娘が「切っちゃえばいいじゃない」とさらっと言ったんですね。私は「足がなくなったらあなたにすごく負担をかけるようになるよ」と伝えたら、「そんなの分かってるよ。私やるから。早く切って社会復帰できるんだったらその方がいいじゃない」って言うんですよ。
私、泣くのを我慢してたんですけど、うちの子が「泣けばいいじゃない。いいんだよ、泣いて」って言うから、もうこらえきれずにブワーっと涙が出てきまして。それで、切断することになりました。
娘に背中を押されて
——その後のリハビリはどうだったんでしょうか。
キャロット ベッドでのリハビリから始まり、それから車椅子に移る練習、リハビリ室でのリハビリを経て、義足・義手に出会うまで約1年かかりました。ただ最初は義足を試したものの、切断した部分が痛くて履けなくて。それで装具という補助器具をつけて、歩けるようになって退院するまで2年ほどかかりました。
——リハビリに耐えられた原動力は何だったんでしょう?
キャロット やっぱり娘の力がすごく大きかったです。事故のあと、娘はサロンの全てのお客様に「こういう状況でお店が営業できなくなりました。申し訳ありません」という旨のメールを送ってくれて。また、私の衣類の洗濯も何もかも全部やってくれていたので、「くよくよしてちゃいけない。できるかぎり早く歩けるようになって退院しなきゃ」と思って頑張りましたね。
——家に帰ってから、身の回りのことは……。
キャロット 病院とは全然勝手が違うのでどうしようと思ってたら、うちの娘が全部やってくれました。トイレに行くのも娘の肩を借りて、お風呂のときも服を脱がしてもらい、体も髪の毛も洗ってもらって(笑)。でも、そのうち娘に「少しずつ自分でやんなさい」って促されて、チャレンジするようになりました(笑)。
——いろんな局面で娘さんの言葉に背中を押されていらしたんですね。とりわけ心に残っている言葉は何でしょうか。
キャロット 「今」っていう言葉です。「今、この一瞬を大事にして、楽しんで生きればいいんじゃない」って言われて。入院していたとき、お世話になった精神科の先生から「過去のことは思い出さない方がいい、とにかく今を見なさい」と言われていたのを娘もよく覚えていたんでしょう。ある日段ボールの切れ端に「今」って書いて、病室の壁にぺたっと貼ってくれて。今でも大事に持っています。
※この記事は、2022年3月22日放送「ラジオ深夜便」の「右手右足を失っても 今がいちばん幸せ」を再構成したものです。
1967(昭和 42)年生まれ 、東京都出身。2015(平成27)年10月、トラックの衝突事故で右手と右足を切断。その後車椅子ダンスと出会い、現在は義手・義足のダンサーとして活躍中。
構成/後藤直子
(月刊誌『ラジオ深夜便』2022年7月号より)
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