携帯端末に目まぐるしく流れ来るニュースの数々。刻一刻と移り変わる世界情勢。世界とは何か。歴史とは何か——。時代を読み解き、今このときを生きる審美眼を養う特別コラム第6回。
執筆するのは、NHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」をはじめ、多くの名作ドキュメンタリーを手がけてきた映像ディレクター・著作家の貴志謙介氏。全30回(予定)にわたり、ウクライナを軸に世界情勢とその背景にある歴史をひもといてゆく。

今回も数奇なめぐりあわせの連続になりそうです。
「阪神間モダニズム」と幸運な出会いを果たした超一流の音楽家たちは、深江を音楽家のサロンに仕立て、国際的な芸術家を招いて魅力的なコミュニティーに育てあげました。とりわけ隣接していたオーベルジュ「文化ハウス」は、国籍を問わず、才能あふれる音楽家が交流する拠点でした。

当時の日本を代表する芸術家や文化人、たとえば作曲家の山田耕作、詩人の竹中郁、画家の小磯良平、指揮者の近衛秀麿らも文化村を訪ね、大きな刺激を受けたといいます。

深江村に縁の深い亡命音楽家から個人的なレッスンを受けた若者も多く、そのなかから国際的に高く評価される音楽家もあらわれました。天才とうたわれたふたりの音楽家、貴志康一と大澤壽人は、その代表でしょう。

貴志康一は1909年生まれ。ヴァイオリニスト。指揮者。作曲家。映画監督。
18歳のときにスイスとドイツへ留学、巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラーから指揮を学び、26歳のときには、ベルリン・フィルを指揮して自作を録音したという驚異の天才でしたが、惜しくも28歳の若さで夭逝しました。

ベルリン・フィルを指揮する貴志康一(1934年11月18日)。©学校法人甲南学園「貴志康一記念室」

もうひとりの天才は、21世紀になってから再評価され、いま大きな脚光を浴びている作曲家・大澤壽人です。1906年生まれ。深江文化村のルーチンが主宰する音楽学校で才能を認められ、24歳の時、ボストン大学音楽部へ留学、ついでパリに学び、フランス楽壇に作曲者・指揮者としてデビュー。日本人の作曲家としてはじめてパリで作品の演奏会を開き、ヨーロッパの名だたる音楽家から絶賛されました。(大澤については、次回のコラムでくわしくご紹介します。)

このふたりには、共通点があります。音楽家養成の最高学府である上野の音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)とは縁がなく、そのかわり、神戸につくられた亡命音楽人のサークルが、ふたりの才能を育むゆりかごになりました。
ふたりともスケールの大きな才能で世界をめざし、まず海外で成功、名声を得ました。

時計の針を巻き戻し、貴志康一が芦屋の甲南高校の生徒であった1926年前後を振り返ってみましょう。ウクライナの亡命音楽家はすでに日本に腰を落ち着け、ラジオやコンサートを舞台に活躍していました。アレクサンダー・モギレフスキー、レオ・シロタ、エマヌエル・メッテル。当時、クラシック音楽の好きな関西の若者は、巨匠たちの奏でる響きに心を奪われていました。

貴志もそのひとり。幸運なことに、貴志家の邸宅は、芦屋川をへだて、深江文化村にごく近いところにありました、その縁で、14歳の時、深江文化村ゆかりの亡命音楽家ミハエル・ウェクスラーの指導をうけることになりました。そして、やはり文化村の縁で、宝塚交響楽団の指揮者ヨーゼフ・ラスカに和声や音楽理論を学ぶことができました。

ウェクスラーはリトアニア人、ラスカはオーストリア人。ですから、直接の指導者はウクライナ人ではありませんが、貴志の音楽人生を子細に見れば、ウクライナの音楽家と数奇な縁で結ばれていたことがわかります。

そもそも、貴志が音楽を志したのは、12歳の時、ヤッシャ・ハイフェッツと並び称される天才ヴァイオリニスト、ミッシャ・エルマンの来日公演で、魂をゆさぶられる強烈な感動を味わったことがきっかけでした。このエルマンこそは、オデーサの音楽学校で学んだウクライナ人の巨匠でした。
(このコラムの最後にめずらしいエルマンの演奏風景をご紹介します)

1925年、16歳の貴志は、甲南高校に通いながら、メッテルの指揮するJOBK(現在のNHK大阪放送局)専属オーケストラに参加します。いうまでもなくメッテルはウクライナが生んだ偉大なマエストロ。朝比奈隆や服部良一の師匠として知られています。

そして、1929年。貴志はあるウクライナ出身の音楽家と奇跡的ともいえる出会いを果たします。20歳の貴志がスイス、ドイツでの最初の音楽修行を終え、シベリア鉄道で帰国する途中、偶然、乗り合わせたのが、レオ・シロタだったのです。

これは貴志にとって願ってもない出会いでした。シロタはウクライナのカーミャネチ・ポジリスキーで生まれ、キーウ音楽院で学んだ天才ピアニスト。ウィーンで国際的な名声を確立し、当時は日本を拠点に活躍していました。ふたりは意気投合し、かけがえのない親友として、たいせつな舞台をともにするようになります。

貴志康一とレオ・シロタ。©学校法人甲南学園「貴志康一記念室」

新進ヴァイオリニストとピアノの巨匠。ふたりのデュオによる演奏会が東京や関西で開かれ、熱狂的な人気をあつめます。シロタは若い貴志の才能を高く評価し、適切な助言をあたえ、良き支援者になりました。

シロタをはじめとする亡命音楽人から支えられ、日本で名声を確立した貴志は、1930年、そして1932年ドイツを再訪し、ベルリンでの活動に力点をおくようになります。
才能と人間的な魅力を兼ね備えた貴志。気がつけばヴィルヘルム・フルトヴェングラーやパウル・ヒンデミットなど西洋音楽史に名を残す巨人とも親しくなり、ベルリン社交界の寵児となっていました。

貴志はドイツでなにを学び、どう変貌したのでしょうか。1920年代後半から30年代にかけてのドイツは、敗戦の後遺症にくるしみ、あらゆる芸術は、社会の閉塞状況を打ち破るために、あたらしい表現をもとめて沸騰していました。ベルリンでは、オペラ劇場からキャバレーまで、雅俗入り乱れる劇場文化が爛熟していました。

たとえば、作曲家クルト・ヴァイルは劇作家ベルトルト・ブレヒトと組み、暗黒街を舞台にした音楽劇『三文オペラ』(1928年)で、一世をふうします。
やはり作曲家のアルバン・ベルクは革新的なオペラ『ヴォツェク』(1925年ベルリン初演)で、戦争の後遺症で正気を失ってしまう人々を描き、観客におおきな衝撃をあたえました。

映画では黄金時代をむかえたウーファ社が『嘆きの天使』『会議は踊る』『メトロポリス』『カリガリ博士』など、映画史上に燦然と輝く傑作を次々に世に問い、世界の映画人の注目を一身に集めていました。

コンサート・ホールで演奏される芸術音楽だけが20世紀の音楽のかたちではないのかもしれない。貴志康一の関心はジャンルをこえた芸術表現へと拡大していきます。
才気あふれる貴志は、演劇学校へ通い、多様な表現を学んで音楽と響きあうような新しい芸術をおもいえがきます。

1933年、貴志は「ヴァイオリン協奏曲」「日本スケッチ」の作曲に着手するかたわら、ウーファ社の協力を得て、映画作りにのりだしました。日本文化の再発見をテーマとした音楽映画『鏡』です。貴志が演出・出演・音楽を担当。

残念ながらわたしはこの作品を見ていないのですが、ベルリンにおける貴志の足取りを克明に追った毛利眞人さんによれば、阪神間モダニズム時代の「大大阪」の実写がインサートされ、多重露光やコマ落としなど、アヴァンギャルドな映像言語が駆使されているといいます。(毛利眞人「貴志康一 永遠の青年音楽家」)この映画は10月にベルリンで封切られ、映画人からも、高く評価されました。

貴志は翌年、こんどは、舞台芸術にとりくみ、自作の音楽劇『ナミコ』を上演します。満州、ハルビンを舞台にした国際色豊かなオペレッタで、音楽的にもジャズから民族音楽にいたるまで、あらゆる音楽語法を駆使した意欲作。26歳の貴志は才能にまかせて音楽人生を全速力で疾走しました。

ヨーロッパの芸術のすさまじい変貌に刺激を受け、貴志の才能が、どんな表現を生み出すか。そこに、ゆたかな可能性があったのではとおもわれます。

しかし、残念ながら、貴志の冒険は、突然、切断されてしまいます。

ヒトラーが政権を奪取してから一年。ユダヤ系の音楽人はのきなみ亡命し、貴志の敬愛するフルトヴェングラーやヒンデミットもベルリンを去ります。貴志もドイツを去り、帰国後は、新響(現在のNHK交響楽団)客演、作曲、あらたな映画の構想など、激務の日々を送ります。ところが、積年の労苦が災いしたのでしょうか、志半ば、病に倒れてしまいます。

1937年、貴志は短い生涯を閉じました。
28歳でした。

葬儀には、親友であったウクライナ出身のピアニスト、レオ・シロタの姿がありました。胸いっぱいの花を捧げ、涙をあふれさせたシロタの姿を見て、親しい人々のあいだにえつがひろがります。

わずか28年・・・しかしベルリンで名声を得る芸術家にまで成長。泉の湧くように新しい夢をえがき、花火のような人生を駆けぬけました。貴志の人生は、劇的な出会いの連続でした。とりわけウクライナの音楽家との縁は、幸福なめぐりあわせであったというほかありません。(第7回へ続く)

【FEEL ! WORLD】
魅惑のエルマン・トーン

貴志康一の魂を奪い、音楽の道にみちびいたエルマン。1891年、ウクライナの寒村にうまれたミッシャ・エルマンはオデーサの音楽学校出身。1923年にアメリカの市民権を得ました。名録音はかぞえきれませんが、ハリウッドにおける珍しい演奏風景を記録した映像が残っています。

ハリウッドボウルのミッシャ・エルマン
https://dukesoftware.appspot.com/violinist/Mischa_Elman/

こちらはエルマンにあこがれた貴志康一の作品「ヴァイオリン協奏曲」です。
貴志康一 ヴァイオリン協奏曲
https://www.youtube.com/watch?v=qKyuacE9gqA

京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。