2025年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の連載コラムは、5人の先生に担当いただき、それぞれの専門分野からドラマが描く時代・社会・政治・文化をわかりやすく解説いただきます。今回の担当は、髙木まどか先生。担当テーマはおもに「遊女・遊廓」です。
今年も残すところあと少し。いよいよ来年の大河ドラマ「べらぼう」の放送が迫ってまいりました。主役はなんと蔦屋重三郎。これまであまりスポットの当てられることのなかった蔦重とともに、彼の出生地である吉原遊廓も詳細に描かれることになります。
遊廓が時代劇などに登場することは珍しくありませんが、真正面からとりあげられることはまれです。大河ドラマでどのように描かれるのか、今から気になっている方も少なくないのではないでしょうか。
他方、「遊廓は知ってはいるが、詳しいことは……」という方もいらっしゃると思います。今回の「序」では、吉原遊廓の概要や、蔦重の生きた頃の吉原遊廓はどんな様子だったかなどについて、簡単にご紹介しましょう。
吉原遊廓(以下、吉原)とは、徳川幕府が開かれて間もない元和3年(1617)に、幕府に許されて設置された買売春公認地区です。幕末にいたるまで、江戸における唯一の公認遊廓でした。
初めは日本橋近くに設けられましたが、明暦3年(1657)に幕府の命によって浅草近く(台東区千束3~4丁目)に移転。この地で、昭和31年(1956)制定の売春防止法によって廃止されるまで、吉原は明かりを灯し続けることとなります。なお、日本橋にあった頃を「元吉原」、浅草に移転した後を「新吉原」と呼び分けることがあります。
江戸時代だけでも、およそ250年続いた吉原。当然そのあり方は一様ではありません。ドラマの舞台となる江戸時代中期ごろの吉原は、ひとつの大きな画期を迎えていました。
たとえば、遊女の装いをより華やかにし、新しいイベントや美しい景観を“創作”しています。加えて、遊女の階級や揚代(遊興費)も一新。お金持ちだけでなく庶民にも手が届きやすい価格にしつつ、外観は華美に――と、経営刷新が次々と行われていったのが江戸中期、蔦重の時代の吉原です。
なぜこの頃にそのような刷新がなされたかというと、背景には岡場所の隆盛がありました。幕府の公許を得ている吉原に対し、岡場所は非公認の遊里です。江戸では深川や本所などが有名ですが、江戸中期の享保年間(1716〜36)頃からとりわけ隆盛し、吉原は客を奪われることになったのです。
吉原よりも岡場所が人気になった理由は挙げればキリがありませんが、まず「立地」があったようです。岡場所は市中に点在しているためフラっと立ち寄りやすいのですが、吉原は市街地から離れていて、田畑に囲まれた陸の孤島のような場所でした。
それに加え、岡場所の方が安価に遊べて気安さもありました。遠くて遊興費も高い吉原にわざわざ足を運ぼうという客は、少なくなってしまったのです。
それでも何とか人を呼び込まなければということで、吉原のメインストリートである仲の町に桜を植えてみたり、遊女の装いをより綺羅びやかにしたりとさまざまな試みがなされていきます。そうして、吉原のあり方はどんどん変わっていきました。高級遊女を指す「花魁」という言葉が江戸中期ごろに登場し広まったことも、吉原の変化を如実に表しているといえるでしょう。
蔦重はそうした時代の吉原に生まれ育ち、吉原のために奔走した人物の一人です。経営不振で苦しむ吉原はどうなっていったのか、ぜひドラマをご覧になってその目で確かめていただければと思います。
他方、ドラマを見るにあたり絶対に忘れないでいただきたいのは、一見華やかにみえる吉原は、数多の女性の人生を犠牲にして成り立っていた残酷な“性買売の場”である、ということです。
「そうは言っても、吉原というのは文化的な場所でもあったんでしょう?」とか、「そんな風にいわれると、ドラマが楽しめなくなってしまう」と思う方もいらっしゃるかもしれません。ですが、現代からみれば重大な人権侵害が行われていた場であるということを、私たちは強く記憶しておかなければなりません。
人身売買を堅く禁じていた徳川幕府。しかし遊女となる娘たちは、ほとんど人身売買のようなかたちで吉原に連れてこられたといいます。親兄弟の借金などを理由に勤めに出された彼女たちは、早ければ7〜8歳ごろから「禿」として見習いをはじめます。
世間では「貞女二夫に見えず」(貞操堅固な女は、離別・死別しても別の夫を持つことはしない)などと女性の貞節が説かれているにもかかわらず、見も知らぬ客に取り入り、床をともにする生き方を叩き込まれるのです。
16〜18歳ごろになると、初めて客と新枕を交わす「水揚げ」をし、客をとる生活が始まります。ろくに寝る間も食べる間もないまま働いても、客がつかなければ楼主(遊女屋の主人)や遣手(遊女のお目付け役)からのひどい折檻を受けることさえありました。
売れっ妓になれば安泰かと思いきや、病気に罹ればあっという間にお払い箱。次々と命を落とす遊女がいるかたわら、運良く長い年季を勤めきっても、今更どこに行ったらいいかわからない遊女も――。
時代が下るにつれ4000人、5000人と増えていった吉原の遊女たちは、ただただ遊廓経営にかかわる人々の利益や客の享楽のために、そうした過酷な生活を強いられていたのです。
大河ドラマ「べらぼう」では、吉原の遊女の凄惨な生活にも焦点があてられていると聞きます。当時吉原に生きた遊女たち、そして彼女たちを取り囲む人々が何を思いながら生きていたのか。ドラマで描かれる情景をとおして、思いを馳せていただければ幸いです。
最後になりましたが、私はこのコラムで遊廓関係の記事を担当させていただきます。1年間お付き合いくださいますよう、どうぞよろしくお願いします。
主要参考文献:石井良助『吉原』(明石選書)
西山松之助編『日本史小百科・遊女』(東京堂出版)
成城大学非常勤講師ほか。おもに江戸時代の買売春を研究している。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻修了。博士(文学)。2022年に第37回女性史 青山なを賞(東京女子大学女性学研究所)を受賞。著書に『近世の遊廓と客』(吉川弘文館)、『吉原遊廓』(新潮新書)など。