これまで私は、よるドラ「恋せぬふたり」を見て考えたことや感じたことを、LGBTQのトランジェンダーである自身の観点からコラムにつづってきた。はたして、私の表現は誰かの役に立っているのだろうか。また、思わぬところで誰か傷つけてしまっていないだろうか。先日、そんな思いを総括する機会が訪れた。

5月12日、東京の駒澤大学(駒沢キャンパス)にて、「恋せぬふたり」のトークイベント第2弾が開催。登壇したのは、脚本を手がけた吉田恵里香さん、ドラマのアロマンティック・アセクシュアル考証を担当した中村健さん、企画・演出の押田友太さん、司会の駒澤大学・松信ひろみ教授。そして、駒澤大学の学生の皆さんが参加した。

▼「恋せぬふたり」トークイベント第2弾のリポートはこちらから▼
https://steranet.jp/articles/-/510
▼「恋せぬふたり」トークイベント第1弾のリポートはこちらから▼
https://steranet.jp/articles/-/206
https://steranet.jp/articles/-/220

第2弾となる今回は特に、学生の質問を通して、吉田さんが脚本でこだわった部分や言葉の使い方など、興味深い話を伺うことができた。また、ドラマから社会へとひろがる駒澤大学の取り組みにも共感した。

「恋せぬふたり」全8回を見て、学生が注目した場面のひとつに、第5回で咲子(岸井ゆきの)がカズくん(濱正悟)に解散を告げるシーンがあげられた。

学生(小野澤)
“「私たち解散しよう」という咲子のセリフは、どのような考えから選んだのですか?”

(吉田)
「咲子とカズくんの共通点は愛情を持っていること。『別れよう』という言葉は、他者に恋愛感情を抱かない咲子には理解できないものだと感じました。カズくんを愛しているけれど、恋愛感情は持っていない咲子が、自分なりに考えて選んだ言葉が『解散』。この言葉には愛情があると思うんです。恋愛感情以外の愛情が見えたらいいなと思って、この言葉を選びました」
 

第5回のこのシーンは、「解散」という言葉がとてもしっくりくるものだった。一般的にあのような場面で使われるのは、「別れる」という言葉だろう。咲子が「別れる」を使わなかったのは、その意味を真に理解できないから、という吉田さんの意図に私は大きくうなずいた。

よくある恋愛ドラマの別れのシーンで「解散」という言葉が使われたら、きっと違和感が生じる。だが、このシーンを自然と受け入れられたのは、一般的な男女愛を理解したくてもできない咲子に対する共感があったから。それは、私だけではく、きっとこのドラマを見続けてきた視聴者も同じだろう。

これは努力ではどうすることもできないもの……と、咲子とカズくんが互いに理解を深めるなかで成立した言葉でもあると思う。ふたりの中にあるふたりだけの愛情が、「解散」という言葉には秘められている。そこには、カズくんに対する感謝すら私は感じた。

そして、今回、私が最も印象的だった質問がある。

学生(平安山)
“このドラマは、家族の脱構築、新しい家族を描く物語だと感じました。そのうえで、「家族」「性」っていう概念は必要なのか疑問に思いました”

この質問を聞いた時、私が普段から感じている「普通」や「当たり前」という言葉の捉え方が気になった。私が、コラム第1回でも言及したテーマだ。
https://steranet.jp/articles/-/115

「普通」や「当たり前」という言葉は、日常のなかで様々な言葉と結びつけて使われる。
例えば、「普通の幸せ」や「当たり前の考え」というように、社会でマジョリティーとされる表現に使われやすい。

だが、私は「普通」や「当たり前」は、一人ひとりが持っている観念であって、それぞれ違う形でよいと考えていた。言葉として、「普通」や「当たり前」は必要ないのではないかとさえ思っていた。

一方で、学生の質問にある「家族」や「性」という概念については、私は必要だと感じた。ただ、これはあくまで私のファーストインスピレーションであって、「普通」や「当たり前」という言葉の捉え方との違いが、自分でもわからなくなってしまった……。

この疑問を解決してくれたのが、考証を担当する中村さんの言葉だった。
「恋愛や家族のような抽象的な概念は必要だなと私は思います。それが一種の指標になるし、その言葉に救われる瞬間もある。「家族」と言葉にして、呼びたいかどうかは自分で決められるから」

今まで周りが使っていた、「普通の幸せ」や「当たり前の考え」という言葉をマイナスのイメージで捉えていた私は、思わずはっとした。それぞれの言葉には、人それぞれの指標があり、私には私の指標があるということなのだ。

人それぞれ捉え方や感じ方が多様であるように、一つの言葉が意味するものは決して一つとは限らない。だからこそ、それを押し付けるようなことはしたくないし、相手を否定することもしてはいけない。
言葉が持つ力は、私たちが思っている以上に大きい――。

学生の率直な疑問は、私が持っていた固定観念を見直す“学び”となった。


そして、ドラマや同イベント第1弾を通して、「セクシュアリティー」や「家族のあり方」について考察を深めた学生は、4月22~24日に開催された「東京レインボープライド 2022プライドパレード&プライドフェスティバル」にボランティア参加したという。

▼「東京レインボープライド 2022」リポートはこちら▼
https://steranet.jp/articles/-/450
https://steranet.jp/articles/-/488

参加した学生(遠藤爽)
“見た目やしゃべり方、考え方など、どんな人でも排除されることなく、自分の生き方にプライドを持っていられる場所であり、より多様性が認められるようになった将来の日本を見ているようでした”

一方で、こんな感想も。
“専門的な言葉の意味を誤認しているのか、要領を得ない会話もあったように思います”

私自身、「東京レインボープライド 2022」に参加して、学生の感想と同様、イベントが目指すものとこれからの課題、その二つを感じていた。

当事者だからといって適切な知識を持っていたり、全てを理解できていたりする訳ではない。もちろん、私もしかり。参加した人の多くが目指している場所は同じだが、その道のりにはまだまだ課題が山積している。これからも認識や理解を深める場を作っていくことが大切なのだろう。

今回、「恋せぬふたり」のイベントや「東京レインボープライド 2022」を通じて得た学びを、自身の言葉で学内や社会に向けて発信する同大学の取り組みは本当にすばらしいと感じた。

言葉にすることに大きな意味があり、その力や可能性は計り知れない。これまでに出会った言葉やこれから出会う言葉に、自分自身の思いを乗せ、それを多くの人と共有し、尊重することで新たな世界が広がる。これからの学生の挑戦が、共生社会に変化をもたらすことを期待したい。


(「東京レインボープライド 2022」では、他の大学もブースを出展しており、独自の活動を展開していた。各大学の取り組みについて、別の機会に紹介する。)