東京の駒澤大学で開催された、「恋せぬふたり」のトークイベントのテーマについて考察するコラム特別編。
前編では、「恋愛観と既成概念」、そして「LGBTとその理解」について、学生の意見と自分の考えを照らして考えました。
(ぜひ、前編 https://steranet.jp/articles/-/206 を読んでから、こちらの後編をお読みください。)
後編では、さらに学生からドラマを深掘りするような意見が出てきた。同年代の若者はこのドラマをどのように捉えているのか。
引き続き、その意外な観点に着目してみたい。
○個別テーマの3つ目は、「多様な“関係性”とは⁉︎」。
学生からの質問は――
“ドラマ内で繰り返し登場する「いつかわかる」というセリフ。これは無意識的な差別を表している。適切な配慮は必要だが、配慮にがんじがらめにされてしまうと息苦しくも感じる。両者が生きやすくなるためにはどうしたらよいだろうか?”
第3回のコラムで言及した、このドラマに多く登場する「いつか……」という言葉。学生からの指摘でもわかるように、やや無責任に感じた人は多いようだ。一方で、配慮にがんじがらめにされて苦しいと感じる人もいるという事実。両者が生きやすい社会は、一体どのようなものだろうか。
日常的に当たり前だと感じている言動を、見直すべきと思うことは少ない。
また実際に、見直す機会はなかなか訪れない。誰もが抱くマインドセットという障壁は、分厚く固いものだ。
しかし、ひとつ出来ることがあるとすれば、ドラマやこのようなイベントを通して、(そしてこのコラムで)「いつか」という言葉に対し、少し違和感を意識することだろう。
そして、「いま自分が当たり前に感じていることは、誰かにとっては当たり前ではなく、特別なものかもしれない」と考えてみてほしい。社会を見つめ直すきっかけにもなるはずだ。
「一般的にはこうだから」「これが普通の考えだから」、という前提を少しずつ変えていくことができれば、「配慮」はやがて「思いやり」へと変わっていく。
誰もが過ごしやすく、生きやすい社会の実現は、ここから始まると私は信じている。
○個別テーマの4つ目は、「新しい家族のあり方」。
学生からの質問は――
“セクシュアリティーの異なる人同士で、「家族」になることは可能なのだろうか?”
この質問に対する私の答えは、「可能かどうかは第三者が判断することではない」というものだ。
「恋せぬふたり」というドラマ自体、新しい視点のドラマであり、その中でも「新しい家族」という言葉はとても新鮮に感じる。では、新しい家族とは何なのか、そもそも家族とは何なのか。
最近、アンケートなどで性別を記入する欄には、「男・女・その他」と書かれていることに気づく人も多いと思う。「その他」の中には、無限にセクシュアリティーがあると私は捉えている。
この記入欄の考え方と同じく、「家族の形」やそのあり方もいろいろあっていい。本人同士が家族だと思えるのなら、それは立派な家族であり、他の誰かが否定できるものではない。
家族になることに可能も不可能もない。互いを認め合い、尊重し合える社会になっていけば、「家族のあり方」などと考える必要もなくなっていくのではないか。
LGBTQの当事者として生きる私は、いつも「セクシュアリティーは無限にある」と考えている。
○イベント終了後
登壇者のひとり、咲子の妹・石川みのりを演じる北香那さんに私も質問を投げかけてみた。
“このドラマに出演して、北さんのなかで何か変化はありましたか?”
北香那さんの答えは――
“こういったセクシュアル・マイノリティーの方の悩みを考えたら、私自身、もし子どもを産んだときは、子どもには「ちゃん」でも「くん」でもどちらでも呼べるような名前をつけたいなと思ったんです。”
北さんのこの言葉を聞いたとき、私はドキッとした。
私自身、性別を変更する際に「名前」で悩んだ経緯がある。
「名前」というものは、さまざまな場面で使うもの。正木菜々瀬という「名前」を相手に伝えると、じろじろと見られたり、性別を再確認されたりすることが多くあったのだ。
「性別にどんな可能性があってもいいようにしてあげたい――」
これは「恋せぬふたり」の出演がきっかけで、北さんのなかに生まれたすてきな思い。
自分の中にある当たり前は、少しいつもと違った見方や考え方をすることができれば、変えることができる。このドラマの果たす役割は、きっと大きい。
1999年、茨城県生まれ。女子校出身のトランスジェンダー。当事者としての経験をもとに、理解ある社会の実現に向けて当事者から性に悩み戸惑う方、それを支えようとする方への考えを発信する活動に従事する。