今回は、ひら源内げんない(演:安田顕)がぎぬによって入牢させられた、まさかの獄死に至るという展開で終わりました。

「書をもって世を耕すように」と蔦重(演:横浜流星)に耕書堂の名を授けたことをはじめ、これまで随所に登場しては、蔦重を助けてきた源内先生。しかし、自賛していたエレキテルが思いもかけない悪評にさらされたうえ、みずからのもとで働いていた職人の弥七(演:片桐仁)に盗用されたことでおかしくなってしまいました。これをいいことに、何者かに消されてしまったというのですから、衝撃です。

ここまでドラマのなかで重要な役割を果たしてきた源内ですが、じつは蔦屋重三郎との関わりはそれほどよく分かっていません。というより、少なくとも文献のうえでは、蔦重が初めてあらための役を務めた鱗形屋板の吉原細見『嗚呼御江戸ああおえど』に源内が「ふくがい」の名で序文を寄せているということ以外、まったく確認できないのです。

とはいえ、ドラマがこのように描きたくなるのにも理由があります。これから蔦重は、みずからを “流行の最先端をいく本屋”としてプロデュースしていきます。そのときのカギとなるのが「江戸さく」(コラム「序の二」参照)なのですが、じつは源内こそ“江戸戯作の父”といえる存在だったのです。

平賀源内はきょうほう13年(1728)、讃岐さぬきのくに(現・香川県)に生まれました。高松藩の志度しどうらの蔵番を3代にわたって務めた白石という微禄の家の子でしたが、脱藩して最初は大坂で学び、そして江戸へ出ます。その過程で生家の氏(白石)ではなく、南北朝時代に南朝方に仕えた先祖(と、源内みずから『平賀氏由来之事』に記す)の平賀氏を名のるようになったといいます。

讃岐の小藩に仕える役分を捨てて大坂で学んだのは、本草学ほんぞうがくという、薬になる植物や鉱物などの研究でした。

讃岐時代におそらく長崎へ遊学した経験から、源内は貿易によって日本の富が国外流出するのを防ぎたいという、この時代の人としては驚くべき志をもつに至ります。そこで、輸入品を国産品で代替すべく本草学の振興をはかり、鉱山開発、陶器生産、かん(石綿糸で作った不燃性の布)・金唐革きんからかわ(金属箔を貼って装飾した革)・エレキテル(摩擦による静電気発生装置)といった西洋の産物の試作に取り組んだのでした。

あり余る才能と、それを世人に認めさせんとする野心がこの人を文筆へと向かわせます。そして今日、文学史において「江戸戯作」と通称される読みものや人形じょう瑠璃るりという、この時代の江戸で興隆しつつあった諸ジャンルの作品の数々を書かせるに至ったのです。

源内の自負たるや、すごいものでした。

放屁論へっぴりろん後編こうへん』(安永あんえい6年[1777]刊)にいわく「見識は吉原の天水桶てんすいおけよりも高く、智恵は品川の雪隱せっちんよりも深しと、こけおどしの駄味噌だみそ」。駄味噌、つまりくだらない自慢と言いながらも、みずからの見識の高さ、智恵の深さを誇ります。さらに、後編に続けて書かれた「追加」では、国益のために邁進まいしんする自身を理解しない世間への不満をこんなふうにぶちまけたのです。

人とうまれみょうため国恩こくおんほうぜん事を思ふて心を尽せば、世人称してやまといふ。……ぞうことわりをしらんが為、産物に心を尽せば、人我を本草者となづけ草沢医人やぶいしゃの下細工人の様に心得、やむまさるのむだがきに淨瑠璃や小説よみほんが当れば、近松門ちかまつもん左衞ざえもんしょうせきたぐいと心得、火浣くわくわん・ゑれきてるの奇物をたくめば、たけ近江おうみ藤助とうすけじっトからげの思ひをなして、へん龍のごとき事をしらず。我はただおよばずながら日本の益をなさん事を思ふのみ。

人と生まれた恩を返そうと尽力しているのに山師扱い。分野の垣根を超えた万能の王者である龍のように国益を追求しているにもかかわらず、世は本草学者としては藪医者まがいとしか見ず、浄瑠璃や文芸を手がければ作者の部類と理解され(それでも近松門左衛門を引き合いに出す自己評価の高さとは!)、エレキテルなどではからくり細工人扱い――。

せいぜい一面しか見ない世の評価への不満を述べた、どんな枠にも収まらない才能の持ち主としての主張でした。

 

多くの追随者を生んだ源内作品の魅力

源内の名を高からしめたのは、風来山人ふうらいさんじんの筆名で出した戯作、また福内鬼外の筆名で手がけた人形浄瑠璃でした。

例えば、浅草せんそう境内を拠点にして、面白おかしく、ときにわいな講釈で人気を集めただんそう道軒どうけんを主人公に、世界を遍歴させるという奇想天外な筋立ての『ふうりゅう志道軒伝』(ほうれき13[1763]刊)、人気の女形役者の水死事件を題材として、地獄と龍宮をもまきこんだ男色話をくり広げた『南志なし』(同年刊)、多摩川のぐちのわたしで謀殺された武将にっ義貞よしさだの次男義興よしおきの子弟や遺臣たちによる御家再興劇『神霊矢口渡』(めい7年[1770]、江戸外記座げきざ初演)などです。

風来山人『風流志道軒伝』巻2より、志道軒が手長・足長の国に行き、諸国をめぐるための羽団扇を奪われそうになる場面。
国立国会図書館デジタルコレクションから転載 https://dl.ndl.go.jp/pid/2554677

源内は作中に、江戸で評判の歌舞伎役者、見世物やちまたの噂などを織りこみ、あるいは江戸やその近郊の歴史をふまえた舞台設定をして、当地の人びとの喝采かっさいを博したのです。経済と社会の安定的な発展のうえに、錦絵をはじめとする独自の文化が花開こうとする都市の空気をよく捉え、その繁栄をことぐその作風は、わずか数年前、宝暦6年に江戸に出てきたとは思えないほど。まさに源内には、人心の機微きびをよくとらえる力があったといえるでしょう。

蔦屋重三郎と話をする朋誠堂喜三二(右)*第15回より

その評判は、多くの追随者を生みだしました。ドラマでも重要な役割を果たしている朋誠堂ほうせいどうさん(演:尾美としのり)は、当初、源内門人「ちょう」を名のっていました。彼は、源内の小文『てん髑髏しゃれこうべ鑑定めききえん』の中で、「風来山人」(源内)あるいはそれに類する名をかたる人物がそれらしい文体で書いたものが続々と出される状況を、このように記しました。

わが風来先生、たわむれに筆をとり、多くの小説よみほん世におこなわれてより、近世開板の俗文、名をかすり、文意をにせあるいただちに風来山人と記すもあり。

ここで非難された偽者たちだけではありません。この喜三二も含めた多くの“後進”が源内を江戸戯作の祖として敬愛するようになります。

板元ふし見屋みや善六ぜんろくが源内没後5か月にして、この『天狗髑髏鑑定縁起』を含めて源内が出した小冊子6点を集めて『風来六部集』(安永9年[1780]序、刊)として刊行します。このときに序文を頼まれたのが、源内門人として、源内の号「天竺てんじく浪人ろうにん」ならぬ「天竺老人ろうじん」を名のった森島もりしま中良ちゅうりょうでした。幕府の蘭方医かつらがわ家に生まれ育ちながら、戯作に遊んだ人物です。

さらに約2年を経て、遺稿集『飛花ひか落葉らくよう』(天明てんめい3年[1783]刊)を編んだのがおおなん(演:桐谷健太)でした。ドラマにもこれから登場し、江戸の出版界の大立て者となる人物です。

彼が弱冠19歳にして出版した狂詩集『ぼけ先生文せんせいぶんしゅう』(明和4年刊)に源内の序をもらってより源内を敬愛し、一時期はその文体模擬を試みたりするほどでした。源内の小文が散逸するのが惜しいと南畝が編纂へんさんした『飛花落葉』には、異例といってもいいほど多くの文人から序文・跋文ばつぶん(あとがき)が寄せられています。

南畝や喜三二、中良のほか、田沼意次(演:渡辺謙)のもと源内とともに暗躍した四谷の煙草屋にして戯作者・狂歌人であった平秩へづつ東作とうさく(演:木村了)、南畝とともに江戸狂歌の流行を牽引したあけ菅江かんこう(演:浜中文一)など。これらの文章は源内に対する親愛と敬意にあふれています。

このように、江戸戯作を牽引する多くの作者たちにとってあおぎみるべき存在だったのが源内先生でした。

 

今もなお謎多き源内の死

さて、今回のドラマで描かれた源内の死にはいまだに謎があります。その状況をめぐっても同時代だけでなく、のちの時代までも異なる情報を伝えるさまざまな文献が錯綜さくそうしている状態です。

それらのなかでもっとも詳しく確からしい史料は、江戸の草分くさわけぬしという由緒正しい名主家の当主で、『江戸名所図会ずえ』『こう年表』などを編纂した斎藤月岑さいとうげっしんの記述。また、これと一致する「かん久右きゅうもんちょうだいろくうつし」です。神田久右衛門町(現在の千代田区東神田3丁目付近)というのは源内がこのときに借りていた家の所在地とされますから、信憑性は高そうです。

これらによれば、安永8年11月21日あかつき、前夜より居宅を訪れていた秋田屋という米屋の息子久五郎(演:齊藤友暁)と、勘定奉行松本秀持まつもとひでもち(演:吉沢悠)に仕えた丈右衛門(演:矢野聖人)の二人に源内が切りつけ、丈右衛門は逃げおおせたものの久五郎は深手を負って落命に至り、源内は22日明方あけがたに召し連れられて入牢、翌年2月に獄死したというものです。

意次は、投獄された源内を必死に励ますが……

これらの史料によっても、なぜ源内がにんじょうに及んだのか、理由はわからないままです。そこでドラマのような想像も可能になったわけです。

丈右衛門は源内の無二の知友だったと記す文献もあります。一方、意次の腹心の勘定奉行松本秀持の家中の者(丈右衛門)と、江戸の経済において重要な存在である米屋の息子(久五郎)という組み合わせには、確かに想像をたくましくさせる何かがあります。

平賀源内という人物は、このように最期まで多くの人の注目を集める非凡な人物でした。

 

参考文献:
石上敏『平賀源内の文芸史的位置』北溟社 2000
日野龍夫「平賀源内と国益」『江戸文学』24号 2001
福田安典『平賀源内の研究 大坂篇』ぺりかん社 2013
福田安典「平賀源内の死の前後」『医譚』107号  2018
小林ふみ子「風来六部集」長島弘明編『〈奇〉と〈妙〉の江戸文学事典』文学通信 2019

 

法政大学文学部教授。日本近世文芸、18世紀後半~19世紀はじめの江戸文芸と挿絵文化を研究している。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。2003年に第29回日本古典文学会賞、2023年に第17回国際浮世絵学会 学会賞を受賞。著書に『天明狂歌研究』(汲古書院)、『大田南畝 江戸に狂歌の花咲かす』(角川ソフィア文庫)、『へんちくりん江戸挿絵本』(集英社インターナショナル)など。