吉原を盛り上げようと、突如開催されることになった祭り「俄」。馬面大夫こと富本豊志太夫(午之助)(演:寛一郎)に出てもらうために、あれこれと駆けずり回る蔦重(演:横浜流星)が印象的な回でした。
「俺は吉原は好かねぇんだ」と言った午之助。その理由は、吉原で追い返された経験にあるといいます。実際に、そうした例はあったのでしょうか。今回は吉原における「役者の扱い」についてご紹介したいと思います。

江戸時代の中頃の噂話を集めた『当世武野俗談』(馬場文耕・宝暦6年[1756])という史料には、こんな話が載っています(以下、意訳)。
「松葉屋の瀬川と一夜をともにしたい」。それが、浄瑠璃語り(浄瑠璃役者)である常磐津文字太夫の長年の願いでした。何とか一度会えないかと、揚屋町の鳥羽屋正三に取り持ちを頼んでみたところ、その熱心な想いを聞いた瀬川は、こんな言葉を返します。
「芸者や浄瑠璃語りなどへは、枕を交わさない習いがあります。それは、ほかの客へ障るからです。ですが、そこまでいうのであれば、ひそかに来てくだされば会いましょう」
思いのほか早く念願が叶うことになり、有頂天の文字太夫。めかし込んで松葉屋へ足を運びます。座敷に上がり、瀬川と顔をあわせ、盃まで交わすと、瀬川は文字太夫に「ぜひ浄瑠璃を聴きたい」とせがみました。求められた文字太夫はうれしくなり、瀬川に気に入られようと声を張り上げて精一杯に語ります。
しかし、聴き終わった瀬川は、「今宵はご苦労様でした。あっぱれ面白く思いました。これは謝礼です。お酒でも召しあがって、お帰りください」といい、静かに座敷をあとにしたのでした。
松葉屋の瀬川が浄瑠璃役者を客にすることを拒み、文字太夫をあくまで座敷を盛り上げる芸人として扱って追い返したという話です。
ちなみに、瀬川は瀬川でも、この話の舞台はドラマよりも少し前の宝暦(1751〜64)頃なので、ドラマの瀬川(演:小芝風花)ではありません。この『当世武野俗談』と同様の話は、およそ60年後に書かれた小川顕道の見聞集『塵塚談』(文化11年[1814])にも載っています。長い間、世間の人々に面白がられたお話だったことがうかがえます。

延享4年(1747)に常磐津文字太夫が創始した常磐津節は、江戸で歌舞伎舞踊の伴奏音楽として発展した。この作品は、芝居「四季文台名残の花」を画題とした役者絵で、後ろに並ぶ柿色の肩衣を来た5人が常磐津連中(常磐津の演奏者)。
三代歌川豊国「[四季文台名残花]」万延元年(1860) 東京都立中央図書館蔵
出典:https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000003-00052087

さて、この話で興味深いのは、常磐津文字太夫が拒否されたのはあくまで吉原の“客”としてであり、役者として芸を披露する立場であれば許されたという点でしょう。ドラマのなかで「役者は吉原への出入りは禁止」といった話が出てきましたが、より正確にいえば、問題になるのは役者の“女郎買い”であり、吉原に立ち入ること自体は珍しくありませんでした。
また、ドラマ中での次郎兵衛(演:中村蒼)のセリフに「出入りを禁じられているのは役者だけ、何で太夫まで?」とありましたが、当時は、歌舞伎役者はもちろん、浄瑠璃役者(語り手の太夫、伴奏の三味線方)も、皆ひっくるめて「役者」と呼ばれています。浄瑠璃役者である太夫も、歌舞伎役者と同じく、吉原で嫌がられる存在だったのです。
女郎買いでなければ、どんなときに役者は吉原へ行ったのでしょうか。ひとつに、“大尽客”と呼ばれる金持ち客の“取り巻き”として足を運ぶ場合があります。
大尽客は取り巻きをワイワイと引き連れているのが常で、彼らの飲食代はもちろん、ときに遊女の揚代(遊興費)まで気前よく支払います。対して、取り巻きたちは芸を披露して座敷を盛り上げたり、使い走りのようなことをしたりしました。
そうした取り巻きのなかに、周囲が「おっ」と驚くような人がいれば、遊女の関心も引けて、大尽客の評判もあがります。そのため客らは、人目を引く役者――とりわけ歌舞伎役者や浄瑠璃役者をしばしば吉原へ伴ったのです。
しかし、役者との同道にはリスクもあります。それは、役者のほうがモテてしまうこと。大衆小説家の祖とされる井原西鶴の『嵐無常物語』(元禄元年[1688]刊)下巻「親仁はしらぬ床入するかな」の冒頭は、こんな言葉ではじまります。
役者のわか男に太鼓もたせて女郎買は、猫にかつほ(鰹)、鼠に餅。くらがりまぎれに喰るゝ物なれば……
若い役者を太鼓持ちにして女郎を買うのは、猫に鰹節、鼠に餅を与えるようなもので、闇にまぎれて食われるものだ、といいます。自分がモテるために役者を連れていったのに、かえって役者の方がモテてしまう。これでは本末転倒です。この西鶴の話は京都の島原遊廓が舞台ですが、同じ轍を踏む客は、吉原でも少なくなかったようです。
なぜ吉原など遊廓では、役者を客にすることを嫌ったのか?
他方、役者が“客”として遊女に会うことは、吉原では非常に嫌がられました。が、常磐津文字太夫の話からもうかがえるとおり、“絶対禁止”とまではいきません。役者とみれば門前払いをする店もあれば、追い返すかどうかの判断を遊女に任せる店もありました。当然、役者を好いて受け入れる遊女もいたわけです。
また、これはあくまで大見世と呼ばれる上等な遊女屋の話で、安価な小見世などでは役者を客にしようが問題はなかったとも。多分に曖昧なところのある慣習でした。
曖昧にせよ何にせよ、なぜ役者は吉原での女郎買いを咎められたのでしょう。
その一つの理由として、当時の社会で歌舞伎役者や浄瑠璃役者が非常に卑しめられていたことが考えられます。
歌舞伎や浄瑠璃は、庶民の熱狂的な支持のもと、江戸時代に大きく花開いた芸能です。18世紀初頭には1年の給金が1000両を越す、いわゆる「千両役者」が登場。ファッションのトレンドを牽引するのも、もっぱら役者といえるほどの存在になっていきます。

鳥居清倍「初代市川団蔵の曽我五郎と初代芳澤あやめの大磯の虎」 18世紀 東京国立博物館蔵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-985)
しかし同時に、江戸時代の社会は厳格な近世的身分階級制のもとにありました。そのなかで役者は四民(士農工商)の下に位置づけられ、卑しめられていました。
なお、ドラマでは盲人が所属する当道座が浄瑠璃の元締めとして描かれていました(当道座についてはコラム#9参照)。これについては議論がありますが、江戸時代初期であればまだしも、江戸中〜後期において、浄瑠璃役者すべてを当道座が支配していたとは考えにくいことが指摘されています。

とにもかくにも、江戸時代における役者は、人気者なのに卑しいといわれる、複雑な立場にあったわけです。「下賤なくせに人気者になりやがって!」と、嫉妬心にかられた人もたくさんいたのでしょう。吉原で役者が嫌がられたのは、単に卑しまれたからというだけでなく、まわりの客が嫉み、あれこれとうるさく騒ぐからというのも大きな理由だったようです。
現代の“役者”像を思い浮かべ、江戸時代における彼らの扱いを意外に思う方もいるかもしれません。しかし、明治以降も役者に対する差別は続きました。明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者である初世中村吉右衛門(1886〜1954)も、島原遊廓の揚屋で門前払いをされたそうです(関容子『中村勘三郎楽屋ばなし』)。
なにかと役者に厳しい遊廓。そんな遊廓で、午之助ははたしてどんな活躍をみせてくれるのでしょう。次回も楽しみにご覧いただければ幸いです。

京都の島原遊廓の入口を描いた錦絵。大門は慶応3年(1867)に堅牢なものに建て替えられ、現在も残されている(京都市指定登録有形文化財/京都市下京区西新屋敷町)。
長谷川貞信「都名所之内 嶋原出口光景」 (安政頃)
国立国会図書館蔵デジタルコレクションより転載 https://dl.ndl.go.jp/pid/1305959
主要参考文献:
加藤康昭『日本盲人社会史研究』(未来社 1974)
関容子『中村勘三郎楽屋ばなし』(文藝春秋 1987)
瀧川政次郎『吉原の四季』(青蛙房 1973)
成城大学非常勤講師ほか。おもに江戸時代の買売春を研究している。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻修了。博士(文学)。2022年に第37回女性史 青山なを賞(東京女子大学女性学研究所)を受賞。著書に『近世の遊廓と客』(吉川弘文館)、『吉原遊廓』(新潮新書)など。