ついに想いが通じあったと思えたのもつかの間、うつせみ(小野花梨)たちの足抜け失敗を目の当たりにして、蔦重(横浜流星)との別離を決断する瀬川(小芝風花)……。このまま二人は会うことすらできなくなってしまうのか、ますます続きが気になる第9回でした。
瀬川を請け出すことになった鳥山検校(市原隼人)。1400両もの大金を出すという彼は、一体何者なのでしょう? 今回は検校を出発点に、江戸時代における座頭(盲人)のあり方や、座頭と吉原のかかわりについてご紹介したいと思います。
座頭の官位も金次第!? 「当道座」の頂点に立つ検校
江戸時代、目の不自由な人たちの生活集団として「当道座」というものが存在しました。その源流は中世、琵琶を奏でながら『平家物語』を語った琵琶法師の集団といわれます。江戸幕府はこれを承認し、当道座に所属する盲人たちにさまざまな保護を与えつつ、統制を加えました。
当道座に属する盲人は俗に「座頭」と呼ばれましたが、その内部は大きくわけて四官(細かくわけると16階73刻)に階級分けされていたといいます(下図)。

「検校」とは、座頭のなかでも最も官位の高い人のことを意味したわけです。ここまで昇り詰めれば、権威はもとより収入も増えたため、座頭にとっては目指すべき官位でした。

元禄3年(1690) 国立国会図書館デジタルコレクションより転載 https://dl.ndl.go.jp/pid/2592440/1/22
当道座の階級を昇るには、箏曲や三味線、按摩といった、座頭がすべきとされる諸芸を修めねばなりません。しかし、真っ当な手順を踏んだのでは、一生かかっても検校にはたどりつけなかったといいます。
ならばどうしたかというと、そこはやはり“お金”です。実際は一定の金額(官金)を幕府に納めることで、一躍上級の官になることもできました。とはいえ「検校千両」ともいわれたように、最上級まで昇りつめるためには多額の金銭が必要です。到底そんな大金を集められない座頭が多いなか、鳥山検校はさぞ“金儲け“の知略に長けたひとだったのでしょう。

文化期(1804~18)
Los Angeles County Museum of Art.
Gift of Mr. and Mrs. Robert S. Dickerman (M.76.68)
ドラマの鳥山検校もそうであったように、座頭というのは頭を丸め、僧のような格好をしています(上図のいちばん右が座頭)。その生業はもっぱら琵琶や三味線などであることから、下位の座頭は遊廓の座敷で音曲を奏でたり、遊女たちの三味線師匠をしたりして、暮らしを立てる者が少なくありませんでした。
江戸吉原遊廓の情景を描いた絵を眺めていると、酒宴をおこなっている座敷にたいてい一人は座頭が描かれています。吉原と座頭の結びつきは、非常に強かったのです。

菱川師宣画『吉原恋乃道引』(部分) ※大正14年(1925)の稀書複製会本。原典は延宝6年刊
国立国会図書館デジタルコレクションより転載 https://dl.ndl.go.jp/pid/1170262/1/22
このように吉原に慣れ親しんでいた座頭たちは、客として遊女を買うこともしばしばありました。ただ、遊廓で働くような座頭は階級の低い座頭です。金払いがよくないといったこともあり、あまり遊女たちからは歓迎されなかったようです。
鳥山検校のような大金持ちの“座頭”が現れたわけ
しかし、それはあくまで江戸時代半ばごろまでのお話。ドラマの舞台となる安永(1772〜81)のころからは、大金持ちの座頭たちが吉原に次々と押しかけては高級遊女を買い上げ、世間を騒がせることとなりました。
津村淙庵という人が、安永のころから見聞したことを著した随筆『譚海』(寛政7年[1795]序)には、当時の吉原についてこんなことが書かれています。
ざっくり意訳すると、1、2年くらい前から検校や勾当(検校の下の位の座頭)が轡屋(女郎屋)に遊ぶことは珍しくもなくなり、松の内(正月)や五節句などの客も大抵は座頭らしい、ということです。
五節句などの特別な日は遊廓では「紋日」といわれ、揚げ代(遊女を呼ぶ代金)が普段の倍以上になるなど、大金持ちの上客でなければ到底足を運べませんでした。ふだんも特別な日も、遊廓の客は座頭ばかり。鳥山検校も、その一人だったというわけです。

座頭がこんなにも勢いづいたのは何故なのでしょう。
その背景には、幕府が座頭に高利貸(座頭金とも)を許したことがありました。貨幣経済の発展、小身(身分や俸禄の低い)の武士の困窮など、さまざまな要因が合わさって、宝暦(1751~1764)・明和(1764~1772)のころから高利の貸金業の需要は増しに増していきます。
高利貸は座頭ばかりではありませんでしたが、座頭はとりわけ法外な高利と容赦ない取り立てで、たちまち財をなしていったのです。
座頭金の年利は、元文元年(1736)から天保(1830~1844)のころまでは1割5分。しかし、実態としては3割が普通で、はなはだしくは6割、10割などと、まさに“暴利”を貪る座頭もいたとか。催促の手法がまたえげつなく、滞納した家の玄関前に大勢の座頭仲間で詰めかけ、大声で悪態をついたといいます。
こんな風に押しかけられたら、借りた方の面目は丸つぶれです。座頭と口論になり手傷を負わせてしまった武士が切腹したり、家族を置いて失踪したりするなど、当時の身分秩序を揺るがす事件さえ起きてしまいます。
非道な高利貸の利をもって大いに吉原で遊んだ座頭たちは、当然、ほかの客から激しく嫌悪されました。とりわけ鳥山検校の瀬川身請けは悪い意味で大評判となり、座頭への不満を綴った本まで出版されています(柿本臍丸『廓中美人集』「異見の段」安永8年[1779]序)。
この本からは、「美しさを十分にみることが叶わないのに、花魁を呼んで豪遊するなんて」「座頭を相手にするなど、女郎たちもどういうつもりなんだ!」といった鬱憤を客らが抱えている一方、「金払いがよい座頭を客にしてなにが悪い」と反発する遊女も多くいたという、吉原内の騒然とした様子がみえてきます。
非道な手段で暴利を貪り、遊廓で豪遊した座頭の所業を、幕府が許すわけはありません。その結果、鳥山検校は、瀬川は、一体どうなるのか……。

(左)芝居「一曲奏子宝曽我」の役者絵。音の響きからわかるとおり「桐山賢行」は鳥山検校をモデルとしている。
三代歌川豊国画「桐山賢行」安政3年(1856)
東京都立図書館蔵 https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000003-00013553
(右)左図と同じく、芝居をもとにした瀬川の役者絵。
三代歌川豊国画『俳優似顔東錦絵』「五井屋京之助・松葉屋瀬川」安政3年(1856)
国会図書館デジタルコレクションより転載 https://dl.ndl.go.jp/pid/1312008/1/2
のちに芝居や洒落本の題材にまでなった検校と瀬川の顛末。これはドラマの筋とも関わってくると思いますので、お話するのは差し控えましょう。今後の展開を楽しみにお待ちください。
主要参考文献:
加藤康昭『日本盲人社会史研究』(未来社 1974)
石井良助『新編 江戸時代漫筆 (下)』(朝日新聞社 1979)
三田村鳶魚『史実と芝居と : 江戸の人物』(青蛙房 1956)
成城大学非常勤講師ほか。おもに江戸時代の買売春を研究している。成城大学大学院文学研究科日本常民文化専攻修了。博士(文学)。2022年に第37回女性史 青山なを賞(東京女子大学女性学研究所)を受賞。著書に『近世の遊廓と客』(吉川弘文館)、『吉原遊廓』(新潮新書)など。