しろさんは熊本県やつしろ市出身。1971(昭和46)年に歌手デビューし、「もう一度逢いたい」や「舟唄」「雨の慕情」がヒットするなど、半世紀以上にわたって日本を代表する演歌歌手として活躍し続けました。 八代さんが自らの来し方を語ったインタビューをご紹介します。
聞き手/徳田章*八代亜紀さんは2023年12月30日、73歳でお亡くなりになりました。 謹んでお悔やみ申し上げます。

この記事は、月刊誌『ラジオ深夜便』2024年7月号(6/17発売)より抜粋して紹介しています。


銀座のクラブからプロへ

──美人喫茶(若くて美しいウェイトレスがいる喫茶店のこと)では何を歌ったんですか?

八代 ジャズやシャンソン、流行歌など、リクエストに応じていろんな歌を歌いましたね。すごく勉強になりました。その後、スカウトされて銀座のクラブに。お給料は20万円になりました。

──その銀座のクラブで、五木ひろしさんと出会った。

八代 そうそう、スカウトされて店に行ったら、ギターの弾き語りをする男の子がいて。それが五木さんだったんです。当時の芸名は三谷謙さん。「ケンちゃん」「アキちゃん」と呼び合う仲で、一緒に歌ったりもしました。今思うと、昭和のいい時代でしたね。

──銀座のクラブを辞めたあと、1971年に「愛は死んでも」という曲でデビュー。

八代 けれど、この曲は売れなかったの。

――そのころ、お父様との関係はどうだったんですか? 

八代 デビューするまでは、電話にも出てくれませんでした。でもデビューしたあと、母が父に「アキがレコードを出したけど売れないらしい。キャンペーンばっかりしていて、かわいそうだね」と話したそうです。そしたら父は泣いて、「アキ、かわいそうだな、東京に応援しに行くぞ」って。会社をたたんで一家で上京してきたんですよ。

――そして、民放のテレビ番組「全日本歌謡選手権」に出場されるわけですね。見事に10週勝ち抜いて以降、ヒットが続くように。1979年の「舟唄」は、転機の歌ですよね。

八代 レコード会社は、作詞家の阿久悠先生に「今までのイメージを払拭するような、先生独自の世界観で描く女歌を」と依頼したそうです。ところが、先生が十数曲作っても、会社側は「今までの歌と同じだから」と全部断ったんですって。そこで先生がちょっとプッツンされて(笑)。「じゃあ、これはどうだ」と出してきたのが男歌の「舟唄」でした。歌詞の最初の2行を読んだだけで「これ、大ヒットする」と確信しましたね。

※この記事は2021年12月6日、2024年3月26日放送「芸の道 輝きつづけて」を再構成したものです。

八代亜紀さんのお話の続きは月刊誌『ラジオ深夜便』7月号をご覧ください。トラック運転手たちが応援してくれるようになった経緯や、八代さんの人生で重要な部分を占めていた絵を描くことについてなど、さまざまなエピソードを語っています。

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