*前回のあらすじ
「彼女はマリウポリからやってきた」という作品が海外で評判になっています。
著者は、ウクライナをルーツとする作家ナターシャ・ヴォ―ディン。
これは、彼女の自伝小説であるとともに、ウクライナの歴史をほりおこす出色の歴史ドキュメンタリーでもあります。(川東雅樹訳 白水社 2022)
著者の母親は、36歳で自殺しました。生前、みずからの人生を語ることを拒み、娘にも秘密を明かしませんでした。著者は、その答えをもとめて、母の足跡をたどるこころみに没頭します。
探索の結果、母の人生ばかりでなく、母の一族の来歴、そして、想像を絶するウクライナ史の真実がうかびあがります。
この作品を読めば、いまウクライナでおきていることを、ふかく理解できます。
このコラムでは、この驚くべき物語のエッセンスを2回に分けてご紹介します。
今回はその後編です。※前編はこちらから
*ナチスによるマリウポリの占領
1941年6月22日、大地を揺るがす大音響、ウクライナの人々は恐怖で震えます。
ナターシャ・ボーディンが入手したリディア(母の姉)の手記に記録があります。
「最初は雷鳴かと思うがそうではない。ドイツ軍によるソ連への奇襲攻撃だ」
スターリンと秘密議定書をむすび、東欧をソ連と「山分け」していたヒトラー。
この日、態度を豹変させ、大軍団を東方へ進撃させました。独ソ戦の幕開けです。
「人々は恐怖の声をあげ」「子どもを抱いていた女性のワンピースが突然赤く染まる。子どもに爆弾の破片があたったのだ」(リディアの手記)
1941年10月8日 著者の母エウゲニアが21歳のとき、マリウポリはドイツ国防軍に占領されました。
ヒトラーの「東方植民計画」すなわち、「スラブ人を絶滅させ、支配人種たるアーリア人の生存圏(植民地)にする」という、狂気の計画がはじまったのです。
ところが、著者によれば、ナチスがソ連を追い出したとき、ウクライナ人の一部には、「一瞬、ドイツ人がスターリン体制を倒す解放者に見えた」といいます。
それほどウクライナの人々は、ソ連の恐怖政治に苦しみ抜いていたのです。
しかし、ドイツへの「期待」が幻想であることはすぐに露わになりました。
ドイツの力を借りてソ連からの独立を勝ち取ろうと考えたウクライナの民族主義者は、たちまちヒトラーの怒りにふれ、投獄されました。
しょせんナチもソ連も、ウクライナにとっては、恐怖、隷属、破壊、殺戮をもたらす災厄の源泉にすぎないのです。
ナチ占領下、1941年のマリウポリの状況を、ナターシャは克明に再現します。
「当時、占領地域の住民はすべてドイツ人のために働かねばならなかった」
「ドイツのために働く者だけが食糧配給券を手に入れることができる」
「食糧配給券なしには誰も生き残ることはできない」
ナターシャの母エウゲニアはこのとき、21歳。ナチに強いられて「ドイツ職業あっせん所」の事務員として働くことになります。たとえ強制であっても、ナチの組織で働いたという「経歴」は、生涯、母についてまわることになります。
*ウクライナ人400万人を強制連行
大戦下、ドイツの男性は前線に動員されてしまい、軍需産業で働く労働者が極端に不足していました。労働者を確保できなければ、総力戦には勝てません。
ドイツは、占領した東欧から労働者を動員することにしました。これらの労働者はオスト・アルバイター(東方労働者)とよばれました。オスト(OST)は「東」という意味です。その数、およそ600万。7割はウクライナ人でした。
ナチは占領下のウクライナで、有無をいわせぬ強制連行に狂奔します。大量の市民を銃で脅迫し、家畜運搬車に詰め込み、ドイツへ送りこむ。
農村では、老人も子供も女性も連れ去ります。無人になった村は焼き払います。
*オスト・アルバイター 忘れられた地獄
1943年、孤独と不安のなかでエウゲニアは、地方から来た雑貨商ニコライと結婚します。頼るあてのないエウゲニアは、ニコライの能力に魅かれたのでしょう。
すなわち、「戦い、困難を切り抜け、生きのびる」能力です。
しかし翌年、エウゲニアは、いいようのない恐怖にとりつかれました。連合軍の支援が功を奏し、赤軍がマリウポリに迫っていたのです。
「ドイツ職業あっせん所で仕事をしていた者など、おそらく敵国協力者か国家反逆者としてその場で赤軍に射殺されるだろう」とナターシャは推測します。
「母に残されていた選択肢は、ウクライナからの脱出しかない」。
自分の意志だったのか、それとも強制移送されたのかは、わかりません。ともかく赤軍の到着寸前、23歳のエウゲニアは、間一髪でウクライナを後にします。
生き残るための苦渋の選択。これが、故郷との永遠の別れになりました。
ドイツに送られ、強制労働に従事させられた人々、オスト・アルバイター(東方労働者)の悲惨な運命については、いまも全貌があきらかになってはいません。
ナターシャ・ヴォ―ディンは指摘します。
「ホロコーストについての本は図書館に山ほどある。しかしユダヤ人以外の被害者は、たとえ強制労働による根絶を生きのびたとしても、沈黙していた」
「ユダヤ人の強制収容所と変わらぬ条件で死ぬまで酷使された男女の正確な数さえ、よくわかっていない」「出典によっては600万から2700万人」
オスト・アルバイター(東方労働者)は有刺鉄線で囲まれた特別な収容所での生活を強いられ、24時間、監視されていました。
ドイツ外務省の記録には、むごい仕打ちが列挙されています。
「東方労働者は、些細な失敗をしただけで真冬に上衣を脱がされ、コンクリートの冷たい地下室に閉じ込められ、食事抜きで放置される」
「女性は釘をさした板で顔を殴られる」
「真冬、収容所の構内でホースで水を浴びせられる」
「飢えた労働者がジャガイモを盗んだかどで、公開処刑される」
ナチのいう「人種の序列」には「ウンターメンシェン」(下等人種)という階層があります。
スラブ人、ユダヤ人、ロマ人、障害者、同性愛者は「下等人種」のレッテルを貼られ、人間あつかいされませんでした。
ウクライナ人はスラブ人の序列のなかでも、最下層とみなされ、虐待されました。そもそもヒトラーの計画では、スラブ人を奴隷として酷使し、絶滅させる計画でした。ナチスによる絶滅計画はユダヤ人ばかりではなかったのです。
*性奴隷市場
ナターシャ・ヴォ―ディンは、女性の労働者が受けた苦しみに目を向けています。
「飢餓、恐怖、そして耐えがたい密集生活が、密告、窃盗、売春を生む」
「女たちは一切れのパンのために、一個の石鹸のためにドイツ人に、あるいは外国人労働者に衰弱しきった身体を売り、自分の命を危険にさらす」
スラブの女性がドイツ人の男性と関係をもてば、死刑、またはナチスの強制収容所送りを命じられます。収容所には、こんな注意書きが貼られていました。
「軽食なら懲役一年、キスなら懲役二年、性交は斬首」
それにもかかわらず、凌辱は収容所では日常生活の一部になっていました。
「ドイツの男なら現行犯でつかまってもおとがめなしだが、凌辱を受けた女性は死刑か強制収容所送り」
「ドイツの女に近づいたスラブの男は公開で絞首刑」
「死体はほかの者たちへの見せしめに何日も絞首台に吊るしたままにされる」
ウクライナ人はじめスラブ人の強制労働者は、ナチのいう「劣等人種」ゆえ堕胎が義務とされましたが、臨月にこぎつける女性も少なくありませんでした。
その結果、20万を超える新生児が母親から取り上げられ、殺されました。
毒物注射で殺される子もいましたが、大半は放置され、「腫物、湿疹、疱疹に覆われ、飢えと寒さに震え、不潔なまま捨て置かれ、組織ぐるみの無慈悲と黙殺で死ぬ」「赤ん坊はマーガリンの箱に入れて埋葬されるまで、汚物と虫、蛆まみれのバラックに積み上げられる」
*人体実験にも動員された
ナチスの人体実験のモルモットにもされたのは、ユダヤ人ばかりではありません。オスト・アルバイターもまた「冷たい水槽や気密室での実験の材料にされ、ワクチンを試験投与され、強いX線を照射され、死ぬほどの苦痛にさらされた」のです。
チフスや赤痢で亡くなる者、自殺者、心を病むものもあとをたちませんでした。1944年9月、ナチスの大幹部ヒムラーは精神病院にいるスラヴ人全員の殺害を命じ、「ドイツの病院が満杯なのに、労働力としてドイツの役に立たないスラブ人を治療するのは無責任」と言い放ちました。
*防空壕にも入れない
1944年、母エウゲニアが東方労働者として配属されたのは、軍需工場。当然ながら「四六時中、連合軍の爆撃にさらされている」危険きわまりない場所でした。
しかもそこは、非人間的な搾取で悪名高い「フリック財閥*の工場」でした。
*フリック財閥…ナチス・ドイツを支えた巨大な財閥。総帥のフリードリヒは、
ニュルンベルク裁判で奴隷労働の罪に問われるも、死刑を免れ、
戦後は財界に復帰、世界有数の裕福な事業家として、西ドイツに君臨。
「来る日も来る日も流れ作業台の前で12時間、週に6日、空腹と、毒虫のはびこる、バラックの寒くて不安な夜」
リウマチ、肝臓疾患をわずらい、体力は衰えていきます。
しかも母は「ウクライナに出撃する戦闘機を組み立てていた」のです。
連合軍によるドイツ空襲は、日ましに、破壊力が増大します。
しかし、ドイツ当局は、オスト・アルバイター(東方労働者)がドイツの防空壕へ立ち入ることを禁じていました。それゆえ、空襲のたびに、多くの強制労働者が犠牲になりました。
それでも母は2年間、地獄をいきのびました。
ところがナチスの敗北後、母を待ち構えていたのは、人生最悪の恐怖でした。
すなわち、ソ連への強制送還です。
*強制送還の恐怖
大戦が終わり、ウクライナや東欧諸国はソ連の支配下にはいります。
ドイツで強制労働させられていたオスト・アルバイター(東方労働者)にとって、帰還すべき国家は、もはやソ連しかありません。
しかし、東方労働者の多くは帰還に恐怖をいだいていました。というのは、ソ連に帰還すれば、ナチスに協力した裏切り者として処刑されるか、あるいは強制収容所に送られるおそれがあったからです。
捕虜であろうが強制労働者であろうが、戦時中、西側にいたものは、ソ連に報復されるのです。まことに理不尽におもえますが、それがソ連のやりかたなのです。
英米をはじめとする連合国は、その危険に気づいていながら、戦勝国であるソ連に忖度し、ドイツにいた強制労働者の大半を強制送還しました。
ナターシャ・ヴォ―ディンは送還を強いられた人々の恐怖をこう描いています。
「本国送還の際にはぞっとする場面が生じる。難民たちがアメリカ人の足元に身を投げ出し、ソ連へ送り返すくらいならむしろ撃ち殺してくれと懇願するのだ。スターリンの復讐への恐怖から死を選び、バラックの梁に首を吊る者もいる」
1953年までに、550万がソ連へ送り返され、5人にひとりが銃殺、もしくはグラーグ(強制収容所)送りとなりました。さらに多くがシベリアに強制移住させられ、さもなければ強制労働部隊に配属されました。オスト・アルバイターは、ソ連に帰還しても、「冷酷な暴君の狂気にさらされ、惨めな人生をしいられた」のです。
*戦争が終わっても地獄から脱け出せない
両親は、アメリカの占領地へ逃亡。米軍の申請書に「ポーランドのクラクフ出身」というミスが記載されたおかげで、ソ連への送還をまぬかれました。
しかしながら、「帰るも地獄 とどまるも地獄」なのです。たとえドイツにとどまることができても、「追放流民」すなわち、国籍をもたない難民として収容所に入れられます。
孤立し、飢え、迫害され、貧しい暮らしから脱け出すことができません。
*少女ナターシャの受難
著者ナターシャ・ヴォ―ディンは、1945年12月、ドイツで生まれ、ゲットーのような難民収容所で育ちました。
彼女の子供時代は、悲惨というほかない記憶にあふれています。
「わたしが知っていたのはただ、自分が一種の人間の汚物、戦争が残したゴミか何かに分類されていたということだけだ」と著者は書いています。
父は米軍から支給されるタバコやチョコレートを闇市で物々交換したり、屑鉄拾いをし、綱渡りのような暮らしを続けました。
「追放流民の大多数は、わたしたちがまさにそうであるように、アメリカに移住できたらと願いながら生きていた」
しかし、移民の申請が認められるのは、ごくわずかにすぎず、たいていは叶わぬ夢に終わります。
ナターシャは少女の頃、ドイツの子どもたちに深刻ないじめを受けました。
「ドイツの戦争未亡人とナチ党員の父をもつ子どもたちがわたしをしつこく追い回した」あたかも「わたしがすべてのロシア人を代表しているかのように」「わたしは共産主義者の、スラブの劣等人種の化身」しかも「敵の化身」
担任の先生は「金髪碧眼のゲルマン女性でムチを手放さず」「ロシア人の残虐行為、殺意そして凶暴性を並べたて、わたしにおそいかかるように迷いなく同級生をけしかける」
ナターシャの両親はスターリンから必死で逃げてきたにもかかわらず、戦後のドイツでは、ソ連の手先であるかのようにみなされたのです。
ナターシャの友人ジェミラは、ドイツの子どもたちから川に突き落とされて、溺れ死にました。
それ以来、ナターシャはドイツの子どもたちから、必死で逃げ続けました。
ナターシャの少女時代の回想は、想像を絶するほど悲惨で、ことばを失います。
学校での虐待から逃げても、家庭で、すさまじい暴力にさらされます。
「追放流民」の人生に絶望していた父は酒が入ると、ナターシャを虐待します。「父はわたしを『コレラ菌、寄生虫、愚か者』とよび、私の身体を抑え込み、もう一方の手を斧のように降り下ろす」
母は心を病んでおり、ナターシャを守る力をすでに失っています。
母は次第に幻覚を見るようになります。蛇が台所にあらわれ、白樺の木が燃え上がるのを見て、叫び声をあげます。「神様はいないのよ」と言って、ナターシャが祈るのを禁じます。
あるとき、母は錯乱して、縄跳び用の縄で、ナターシャの首を絞めつけます。「ナターシャは悪魔の子、殺さねばならぬ」と叫んで・・・まさしく地獄です。
*母へのレクイエム
1956年のある日、母エウゲニアは家を出て、二度と戻って来ませんでした。
「西ドイツの小さな街の、無国籍外国人のための住宅施設からそう遠くないところで母は入水し、みずから命を断った」
「わたしは十歳だった」「わたしの記憶の中では母は実体のない影でしかない」
母がなぜ死んだのか、どんな人生を歩んだのか、何も知りませんでした。
60年後に家族のルーツを探求し、20世紀の闇の、底知れなさを知るまでは。
ナターシャが過去への旅を終えて、たどりついた母の肖像が胸をしめつけます。
「母は36年しか生きなかった。ただならぬ歳月だった。内戦、粛清、ソ連での飢饉、そして世界大戦とナチズムの年月。母はふたつの独裁体制に、最初はウクライナでスターリン、次いでドイツではヒトラーという、人間の裁断装置に呑み込まれてしまったのだ」
「わたしがたしかに記憶していること。それは、ソヴィエト政府、スターリンに対する両親の激しい憎しみ」 「母の人生の破滅の責任はソ連にある。ソ連は無数の人々を殺害し、故郷ウクライナを破壊し、異国での暮らしに追いやったのだ」
「血に飢えた20世紀のもっとも暗い闇からやってきた、哀れで、ちっぽけで、気がふれてしまったわたしの母・・・」
*エピローグ 忘却にあらがうために
母の死後、ナターシャは、追放流民の団地から、カトリック養護施設に移されます。その後、電話交換手やタイピストなどの職を得て、独力で人生を切り開いていきました。
言葉への鋭敏な才能を生かし、通訳になったことから、作家への道が開けます。
そしてナターシャは、73歳になって「彼女はマウリポリからやって来た」を書き、母の人生、家族の歴史、東方労働者の悲劇、ウクライナの真実を忘却の海から救い出したのです。
ウクライナの「絶望の歴史」を知ることに、どんな意味があるのでしょうか。
ウクライナ人はながく、沈黙していました。真実を口にしないことで災いを避けようとしてきました。
ソ連の監視社会を生きのびるために、そうするしかなかったのです。
しかし独立後、とりわけロシアの侵略を受けてから、ウクライナは声をあげ、ロシアの嘘を拒絶し、みずからの来歴を世界に発信し始めています。
今起きていることを、より深く理解するためには、ウクライナの経験した「絶望の歴史」を知ることが欠かせません。ヴォ―ディンの作品を読んで、その思いはさらに深まりました。
付記
*古代ギリシャの文化圏から生まれた美しい港町マリウポリは、1918年・ソビエトの侵略、1941年・独ソ戦のさいに焼き尽くされました。ソ連崩壊後は、画一的なソビエト様式と決別して、市民の努力で洗練された街づくりを実現してきましたが、今回の侵略で、すべて破壊されてしまいました。
ロシアによる無法な侵略と殺戮、ありとあらゆる戦争犯罪は、いったいいつ裁かれるのでしょうか。
*系図をしらべて家族のルーツをたどり、同時に、ソビエトの圧政に苦しみぬいたウクライナの100年をうきぼりにする。そんなヴォーディンの自伝と、ひじょうによく似た方法でつくられた映像ドキュメンタリーが、私も制作に参加した「ETV特集『ソフィア 百年の記憶』」です。ヴォーディンの家族の運命と比較しながら、ウクライナの「絶望の歴史」がもつ意味あいを考えることができます。
※「ETV特集『ソフィア 百年の記憶』」は、NHKオンデマンドのサイトで視聴できます。
京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。