アゾフ海をのぞむ港町マリウポリの名は毎日、世界に発信されています。
ロシア軍の侵略・戦争犯罪に対し、死に物狂いで抵抗した都市として。
そしていま、ウクライナの反転攻勢の重要な戦略目標のひとつとして。
もしウクライナ軍がマリウポリを解放すれば、ロシア軍を分断でき、戦況はおおきくウクライナに有利にかたむくでしょう。
マリウポリの歴史には、ウクライナを知る貴重なカギが隠されています。
今回のコラムでは、「彼女はマリウポリからやってきた」という文学作品をご紹介します。この作品は、ウクライナをルーツとするドイツ語作家ナターシャ・ヴォ―ディンの自伝小説です。邦訳も出ています。(川東雅樹訳 白水社 2022)
1945年にドイツで生まれた著者ナターシャ・ヴォ―ディンが、亡き母の人生、そして一族の知られざる歴史を事実にもとづいて解き明かす、謎と戦慄に満ちた物語です。ヨーロッパで高く評価され、多くの文学賞を受賞しました。
作品の舞台となるマリウポリは、悲劇の都市です。ソ連やナチス・ドイツに侵略され、残虐きわまる暴力の犠牲となり、数えきれないほどの家族が離散しました。
この大河小説には、グランド・オペラのように数多くの印象的な人物が登場します。しかしヒロインは、やはり著者の母エウゲニアでしょう。目を引く肖像写真(13ページ)をご覧ください。
作品のおおきなモチーフは「母エウゲニアの死をめぐる謎」です。
エウゲニアは、心に深刻な秘密をかかえており、娘ナターシャにさえ、みずからの半生を語ろうとしませんでした。そして、36歳で命を断ちました。
そのことは長く、ナターシャの心の傷になりました。
母が心に秘めていたものは何だったのか。
なぜ娘を残して死ななくてはならなかったのか。
作家になったナターシャは、母の人生の謎を追求しはじめます。
謎がとけていくにつれ、母の人生ばかりでなく、一族の数奇な歴史も息を吹き返します。そして、ナターシャ自身の人生にも、おもいがけない光が射しこみます。
この作品をじっくり読めば、ウクライナをめぐる理解は格段に深まるでしょう。
いまこそ読むべき物語というべきです。
このコラムでは2回にわたり、そのエッセンスをご紹介します。
前篇 失われた時をもとめて
「わたしが母の人生について知っていることはごく限られていた」とナターシャは書いています。手元に残っていた母の写真は、わずか3枚。そのほかの手がかりといえば、ウクライナの婚姻証明書と、ドイツの就労証明書くらい。
残された書類からわかること。それは、「第二次大戦のさなかに、23歳の母が父とともにマリウポリから強制労働者としてドイツに連行された」こと。
そして、「軍需工場に動員された」ということだけでした。
「何十年ものあいだ幾度となく母の痕跡を探し求めてきた」とナターシャはふりかえります。「けれども痕跡の、そのまた痕跡すらみつけることができなかった」
ところが七十歳になって、とつぜん、過去への扉が開かれます。
扉をあけるカギは、目の前にある小さな箱、インターネットでした。
ある夜、ナターシャは、「ふとした思いつきから、インターネットのロシア語の検索エンジンに母の名を打ち込んでみた」のです。
むろん何の期待も持っていませんでした。ところが血縁者さがしを支援するサイトに、生年、出生地、父親の名が一致する人物が見つかりました。
ナターシャは、眼の前で母の魂がよみがえったような興奮をおぼえます。
やがてルーツ探しを専門とする「系図学者」と知り合い、強力な支援を受けます。母の来歴をさぐる調査は一気に広がり、一族の多彩な人生が姿をあらわします。
*母は大富豪の孫娘だった!
あかるみにでた事実のなかで、まずナターシャを驚かせたのは、母が大富豪の孫娘であったことです。
アゾフ海と黒海の沿岸はふるくからウクライナ人が住み、ヨーロッパとの交易も盛んでした。母の祖父ジュゼッペ・デ・マルティーノは19世紀にマリウポリに移住したイタリアの船乗り。ウクライナの石炭をあつかい、巨万の富を築きました。
ジュゼッペの妻はウクライナの貴族の娘。ふたりは大邸宅を構え、ドニエプル河畔にワイン倉庫を持ち、優雅な生活を送りました。
ジュゼッペの愛娘マチルダはウクライナ人の裕福な船主の息子ヤコフと結婚します。マチルダとヤコフがさずかった娘こそ、エウゲニア。ナターシャの母です。
1945年にドイツの難民住宅で生まれたナターシャは、飢えと貧困に苦しむ母の姿しか知りませんでした。ナターシャはその信じがたい落差にめまいを覚えました。
*一族の離散
では母エウゲニアは、豊かさのなかで、何不自由ない子供時代を送ったのでしょうか。事実は、まったく違います。
エウゲニアが生まれたのは、1920年。マリウポリの黄金時代はすでに過ぎ去り、ウクライナ全土はすさまじい銃撃戦の絶えない、恐怖の巷と化していました。
ロシア革命と内乱の嵐がふきあれる時代をむかえていたのです。
ウクライナでは、ロシア帝国の崩壊後、1918年に「ウクライナ国民共和国」が独立しました。しかし、ボリシェビキ(ロシアの共産主義者)に侵略され、内戦がはじまります。
戦場となったマリウポリには、「赤旗(ボリシェビキ)、白旗(皇帝派)、黄と青の旗(ウクライナ民族主義者)、黒旗(アナーキスト)」、4つの勢力が入り乱れて、血で血を洗う抗争をつづけました。
街は焼き尽くされ、いまのマリウポリのように、荒れ果てました。
5年続いた内戦でマリウポリを支配した政治勢力は17回も入れ替わりました。
最終的にウクライナを手に入れたのは、「赤旗(ボルシェビキ)」でした。共産主義者の支配がはじまったのです。
貴族は「寄生虫」「屑」「人民の敵」とレッテルを貼られ、その財産や邸宅はかたっぱしから略奪されました。家族は迫害され、世界へ離散しました。
「ソ連時代には貴族の生まれほど不都合なことはない。犯罪であり、究極の恥辱であり、殺される理由にもなる」とナターシャは指摘します。
ナターシャの母エウゲニアは、この狂乱の時代をどう生きのびたのでしょうか。
くわしいことはわかっていません。たしかなことは、差別と貧困に苦しみながらも、エウゲニアは23歳までマリウポリで暮らしていたことです。
ナターシャは気づきます。「母は故郷を喪失したのではなく、初めから故郷などなかったのであり、生まれた時からもう追放流民だったのだ」
*奇跡のめぐりあい
ナターシャの熱意が実り、一族をめぐる謎は少しずつ明らかになっていきました。奇跡の出会いもありました。いとこのイーゴリが生きていたのです!
イーゴリは、ナターシャの伯母リディアの息子。70歳、シベリアで暮らしていました。二人は電話で、熱にうかされたように、一族の運命を語り合います。
かれはナターシャに、おどろくべき贈り物を用意していました。
それは、母の姉リディアが、80歳を超えてから書き残していたノートでした!
この手記から、リディアが若いころ、政治犯として北極圏に近いグラーグ(強制労働収容所)に送られたことがわかりました。
いったいなぜリディアは収容所に送られたのでしょうか。
*リディアはホロドモールを目撃した
秀才だったリディアは、大学に進み、農業集団化を支援するため、1932年、農村へ派遣されます。そこでリディアが目撃した世界は、まさに地獄でした。
1932年は、スターリンによる人為的な飢餓殺人、ホロドモールのはじまった年です。ウクライナでは、モスクワから派遣された共産党員が農民を脅迫して食糧をとりあげ、約400万の人びとを餓死させました。リディアは手記に書いています。
「集団農場に参加することを拒否した男たちは収容所に送られるか殺される」
「ソビエトの徴発隊は農民から、最後の卵、穀物一粒まで取り上げた」
「下水道は崩壊し、コレラとチフスで死ぬ人間が増えるばかり」
「死者を埋葬できる者ももはやいない」「死者は死んだ場所で腐っていく」
「狂気と人肉食」「略奪が横行、毎日新たな人肉食事件が発生」
「肥沃な黒土に恵まれた穀倉地ウクライナは、いま死体置き場になりつつある」
「人肉食のウクライナで、共産党の幹部だけはたらふく食べていた。
オレンジ、チョコレート、ハム、珈琲、キャビア・・・」
しかしながら、スターリンの支配下で、飢餓の真実を告発することなど許されるはずがありません。結局リディアはウソを重ね、スターリンを賞賛するほかないのです。「輝かしい労働者の未来」「万能のソビエト人」という嘘、インチキの数字。
リディアは、革命と共産党に幻滅します。ソ連は「労働者の楽園とはまったく別のもの」その正体は、「労働者を裏切った腐敗した一党寡頭支配」にすぎない。
彼女は、ひそかに秘密結社に参加し、反政府の地下活動をはじめます。
しかし残念ながら、地下活動はすぐに露見し、NKVD*に逮捕されます。
*NKVD(内務人民委員部)…KGBの前身。
プーチンとその取り巻きの多くはKGB出身者
リディアは取調室で屈辱をうけます。訊問官から凌辱されたのです。
ソ連の訊問官による性犯罪は、多発していましたが、うやむやにされていました。
リディアは、政治犯の女囚として北極圏の強制労働収容所メドヴェジヤ・ゴラ*に送られ、製材所で酷使されます。
*メドベジャ・ゴラ…悪名高いソロヴィツキー収容所の出先機関。
白海・バルト海運河の建設に駆り出され5万から25万人が命を落とした。
ソロヴィツキーの奥地ではウクライナの才能ある文化人が大量に処刑された。
ながい刑期を終えると、リディアは結婚してひっそりとシベリアに暮らし、地元の教師をつとめて、目立たぬように暮らしました。
「わたしは無神経な人間になってしまった」と彼女は書いています。
「批判精神も、繊細な感情もほとんど失ってしまった」
リディアが長い収容所生活から学んだ教訓は、ただひとつだけでした。
「ロシアでは、真実を口にすれば、すべてがうまくいかなくなる」
*家族の過去を探求しているのは、わたしだけではない
1937年、母エウゲニアが17歳のとき、スターリンによって、人類史上最大の政治的虐殺が頂点に達しました。1930年代に76万人が処刑され、16万人が獄死。グラーグ(強制収容所)には、1800万人が送られたといいます。
秘密警察、監視、密告、追放、強制収容所、大量虐殺。ソ連が人民を支配する力の根源は「恐怖」でした。
ナターシャは、ある日ネットで『1923年から53年までのソ連の犠牲者』という名簿を見つけました。「この30年だけで4000万人以上の犠牲者が記載」されていました。(処刑、獄死、餓死、戦死などをふくむ)
行方不明の家族を探しているのは自分一人ではなかったのです。
「ロシア革命後、貴族や有産階級が殺され、領地から追い出され、農民は土地を没収されて収容所送りになり、知識人が数知れず強制収容所(グラーグ)に、あるいは亡命により姿を消し、戦争ではさらに二千万人が命を落とした」
「こうしたすべてが二十世紀の世代間のあたりまえの絆を断ち切った」
「いまや百年の恐怖と沈黙の時を経て、かつてのソヴィエト連邦諸国の全土で親類縁者や行方不明者、拘禁された人たち、そして戻って来ない人たちの探索がはじまっていた」
「自分たちの祖先を、アイデンティティを、ルーツを探しに出たのだ」
*知れば知るほど戦慄が・・・
ナターシャの親族には、学者もいればオペラ歌手もいました。文学の教師、亡命者、革命家、粛清された疑いのある者もいれば、飢え死にした者もいます。自殺者も多い。母だけではなかった。中には自分の母親に手をかけた殺人者もいました。
ナターシャは親族の調査を深めるにつれ、心が重くなるのを感じ始めました。
「調べ上げたことが確かなら、親戚はほとんど一人としてまともな死に方をしていない」とナターシャは書いています。
「知ってしまったがゆえに、底知れぬほど深い悲しみに襲われたのだが、その悲しみはいまや一族に対する戦慄へと変わってしまった。もう何も知りたくなかった」
とはいえ、いまだおおきな謎が残されていました。それは、母エウゲニアの人生です。ナターシャは探索をつづけます。(後篇につづく)
京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。