携帯端末に目まぐるしく流れ来るニュースの数々。刻一刻と移り変わる世界情勢。世界とは何か。歴史とは何か——。時代を読み解き、今このときを生きる審美眼を養う特別コラム第13回。
執筆するのは、NHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」をはじめ、多くの名作ドキュメンタリーを手がけてきた映像ディレクター・著作家の貴志謙介氏。全30回(予定)にわたり、ウクライナを軸に世界情勢とその背景にある歴史をひもといてゆく。

女は世界中で虐げられている
本当さ 女は世界の奴隷 

女は家にいるべきだといいながら
女は無知だとあざわらう

自由でありたいという彼女の望みを
わかいときから打ち砕き
女は賢くなくていいとはずかしめる
男の特権を守るため

男は女に化粧をさせて踊らせる
男は女に化粧をさせて踊らせる

女は奴隷のなかの奴隷
声をあげよう 反逆の声を

ジョン・レノン「女は世界の奴隷か?」1972より
 Woman Is The Nigger Of The World (Remastered 2010) - YouTube

*女性の権利について歌ったジョン・レノンのメッセージ・ソング。
ジョンとヨーコはNY時代、ベアテ・シロタと親交を結んだ


憲法24条の草案を書いたベアテの物語を続けます。

1946年2月。22歳のベアテは、「人権に関する小委員会」に配属されました。
焼け跡をジープでめぐり、世界中の憲法をあつめて読み解いていきます。

六か国語を読みこなす並みはずれた語学力、「タイム」誌で鍛えたリサーチ能力を活かし、「日本の女性にとって、どんな条項が必要なのか」をみつけだす。
その作業は「秋の森でキノコを採るよろこびに似ていた」といいます。

「私は日本で暮らしていましたから、あたり前の権利すらない日本女性のみじめさを、子供のころから自分の目で見て、脳裏に焼き付けていました」

明治憲法の下では、女性は、法的にも社会的にも、信じがたいほど無力でした。投票権もなく、住居を決める権利もなく、相続権もありません。戸主(家長)の権限がきわめて強く、家族は、いわば家父長を頂点とした小さな専制国家です。

「戦争に負けて、ゼロから復興すべき今こそ、長年の封建的支配で染みこんだ男尊女卑の観念を打ち破る、絶好のチャンス」ベアテはそう確信していました。


息を吹き返した「日本のデモクラシー」

ケーディス大佐が仕切る憲法草案委員会は、ワイマール憲法や北欧の憲法、パリ不戦条約など、世界の先進的な憲法や国際条約から、ゆたかな恩恵を受けました。

しかしそればかりではありません。土台になったのは、鈴木安蔵はじめ、民主的な知識人の参加した「憲法研究会」の案です。

憲法研究会は、自由民権運動や「大正デモクラシー」の伝統をみ、「国民主権」「男女平等」、「象徴天皇制」はじめ、日本国憲法の骨格となる構想をいちはやくうちだしていました。

憲法草案委員会の指導者ケーディスは、こうのべています。
「日本の憲法研究会案がなければ、短期間に草案をかきあげることは決してできなかったでしょう。ここに書かれているいくつかの条項は、そのまま今の憲法の条文になっているものもあれば、条文のもとになったものもあります」

軍国主義の支配がはじまる前、日本には民主主義へむかう大きな潮流がありました。ポツダム宣言はその「復活強化」を要請していたのです。

1945年1月27日。銀座数寄屋橋交差点の様子。

先人の知恵を活かしながら、ベアテは、不幸な境遇を強いられている日本の女性と子供たちを救いたい一心で、入魂の人権条項を書きあげました。 

「職業の機会均等」。「男女同一賃金」。「母性の保護」。「児童搾取の禁止」。「婚外子への法的差別の禁止」。
ベアテが起草した条文は、今も高く評価されています。

「憲法に女性の諸権利を書き込んでおけば、法律を起草する日本の官僚も無視できない」。ベアテはそう考えていました。しかし彼女の書いた条文のほとんどは、責任者ケーディス大佐の判断で、草案から削除されてしまいました。

なぜでしょう。ケーディスは「憲法にいれるには細かすぎる」といいます。
日本の官僚を縛る条文への、日本側の反発をおそれたともいわれています。

ベアテの目に、涙があふれました。「一つの条項が削られるたび、不幸な日本女性がそれだけ増えるように感じた。痛みを伴う悔しさが、全身を締め付けた」

ベアテは叫びたかった。「日本の女性には、人権など存在しないのです!女性は泣いています!子供はそのために黙って死んでいってるのです!」

ケーディスは、民主改革の旗手でした。しかし、ベアテのように日本の女性の痛みを鋭敏に感じとる力はなかったのかもしれません。

削除されたベアテの人権条項を見なおすと、確かな先見性に、驚きをおぼえます。
もし彼女の原案が実を結んでいたら、世界のどの国の憲法よりも、個人の平等な権利を保障するものとなっていたでしょう。


女神は明け方に微笑む

3月4日、ベアテは、日本側との協議に、通訳として同席するよう命じられます。日米の委員が一堂に会し、憲法の確定草案の作成に着手しました。

午前2時。睡魔とたたかうベアテは、突然、怒声を耳にしました。
日本側が「女性の権利条項」に、ものすごい剣幕で反対しはじめたのです。

「日本には女性が男性とおなじ権利をもつ土壌はない! 人権に対する条項は、日本の国には向かない!」というのです。

ベアテの眠気は吹っ飛びました。しかし議論は平行線をたどるばかりで、誰もが疲れ果て、むなしく時が過ぎていきます。ベアテは心のなかで嘆きました。 

「自分を生んでくれた母、自分のこどもを生んでくれた妻、娘や姉妹の人権を、なぜ尊重しないのですか、どうしてわたしが基本的人権の保障にこだわっているかわかりますか、そう叫びだしたくなり、情けなくて、失望していました」 

そのときです。意外にも、ケーディス大佐が助け舟を出しました。

「みなさん、実はこの条項は、日本で育って、日本をよく知っているミス・シロタが、日本女性の立場や気持ちを考えながら一心不乱に書いたものです。悪いことが書かれているはずはありません。これをパスさせませんか」

「え、シロタさんが?」 日本側はおたがいに顔を見合わせます。

それまでベアテは、懸命に日本側の主張を汲み取って通訳していたため、日本側から好感をもたれていました。ベアテが起草した条文であることを知った日本側(全員男性)は、勢いをそがれてしまいました。

「・・・シロタさんがいうなら・・ケーディス大佐のご提案通りにしましょう」

夜が明けようとしていました。男女同権の条項は救われました。


「憲法よりメシだ!」

1946年3月6日。政府は、「憲法改正草案要綱」を完成させます。
4月には戦後はじめての衆議院選挙がおこなわれ、国会で新憲法草案をめぐる論戦がはじまりました。半年をこえる審議を、ベアテは神妙に見守りました。

GHQのおかれた第一生命ビルの窓から、皇居広場がみえます。
この年、皇居広場では、飢えた民衆が政府に抗議するデモが頻発しました。
戦時中、言葉を奪われていた民衆が、ついに叫び声をあげたのです。

1946年5月19日「食糧メーデー」(皇居前広場)

この年、皇居前広場でおこなわれた民衆のデモをふりかえってみましょう。

3月1日には、「終戦感謝国民大会」が開催されました。
占領軍に感謝する行事です。おどろくべきことに、当時は、占領軍に対する反感よりも、日本を破滅させた旧支配層(軍閥・財閥・華族・翼賛政治家・官僚・秘密警察)に対する嫌悪感のほうが強かったのです。

5月1日には、戦後初のメーデーに50万人。最大の要求は「食糧」です。
5月12日の「米よこせデモ」では、民衆が宮城の台所にまで押しかけました。
5月19日の「飯米獲得国民大会」には25万人が参加。抗議のプラカードには、「憲法よりメシだ!」と書かれていました。

民主的な憲法草案作りに辣腕を発揮したケーディスは、隠匿物資の摘発にのりだしました。民主主義の根幹をおびやかす、信じがたい横領事件です。旧軍人、闇商人、政治家が結託して国家の倉庫から食糧や物資を盗みだしたのです。

1946年4月19日 日本軍が隠匿した金塊を摘発する連合軍兵士

国家の財産を私物化するロシアのオリガルヒさながら、権力の中枢にあったエリートが横領に狂奔していました。あたらしい憲法が国会でつくられている、まさにそのときに、かれらは法治国家のルールをふみにじったのです。

権力者による国家の私物化を防ぐには、憲法で権力を縛るほかありません。
そもそも憲法とは、「国家権力を縛る鎖」です。権力の暴走を未然にふせぎ、国民の権利を守るものなのです。いまだにこのことを理解しない政治家もいますが、本来だれもが心得るべき憲法の基本です。

その間、第90回帝国議会では、新憲法をめぐる議論が沸騰していました。
その過程で、「国民主権」や「生存権」の明記、「義務教育の拡大」「9条の修正」など、画期的な条文が追加・修正されたことは、特筆すべき成果です。

10月27日、憲法案は国会において、圧倒的多数の賛成を得て可決され、11月3日に公布、翌1947年5月3日に施行されました。
飢えに苦しみ、路頭に迷い、希望を失っていた多くの国民は新憲法に期待をかけ、好意的にうけとめました。「男女同権」の24条も歓迎されました。

日本国憲法 第二十四条

婚姻は、両性の合意のみにて基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家屋に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

新聞には、こんな見出しがおどっています。「完全な独立人になる妻 財産の分け前平等に」(朝日5月3日)「男女の権利は同じ 結婚は父母の同意なくできる」(大分合同5月3日)「涙で築いた同権 解放された女性の喜びの声をきく」(山形5月4日)「堅苦しい戸主権よさらば」(新潟日報5月4日)

戦前の理不尽な「家」制度はついに崩壊しました。

いま、教育、医療、子供の親権、学問や職業の機会、財産権、相続権、結婚や離婚の決定、住居の選定など、重要な点についてはほぼ男女平等の権利があります。

男女同学、男女同一労働同一賃金、母性保護、姦通罪の廃止なども、実現しました。24条は女性の人権確立にはかりしれないほど大きな貢献をしたのです。


女性はしあわせになったのか?

憲法24条が生まれてから76年、この条文がもたらした実りのゆたかさに感謝しないわけにはまいりません。

もし憲法24条がなければ、日本は国連の「男女差別撤廃条約の批准」(1985)をクリアできなかったでしょう。
「男女雇用機会均等法」(1985・1997改正)、「男女共同参画社会基本法」(1999)「DV防止法」(2014改正)。すべて24条のもたらした恵みです。

とはいえ、日本に男女平等の社会が実現したかといえば、道のりはまだ遠い。

家族内の性別役割分業はほとんど解消されておらず、育児や介護は女性にただ乗り。女性の非正規労働者が激増。雇用における女性差別は悪化しています。

女性の社会的地位の目安となる「GEM=ジェンダー・エンパワーメント指数」は極端に低く、146か国中116位(2022)、主要七か国(G7)では最低です。  

「男女の平等」をうたう憲法24条じたいが、何度も脅威にさらされています。

1954年、自由党「憲法改正案要綱」は、「家族制度復活」を掲げ、憲法24条を攻撃しました。「孝行息子が減ったのは、憲法24条のせいだ」というのです。

2004年、「自民党憲法調査会」は、「婚姻・家族における両性平等の規定は、家族や共同体の価値を重視する立場から見直すべきである」と主張しました。

2012年の自民党による憲法改正案も24条の改変を要求、復古的な家族観の復権をとなえています。
多様化する家族の現実は無視され、女性を家に閉じ込め、介護や育児の負担をおしつけようとする意図がそこから透けてみえます。

もし、24条の理念が損なわれれば、敗戦から76年間、日本社会が努力してきた男女平等社会への取り組みが台無しになってしまうおそれがあります。

ベアテは日本の女性にこんな助言をしています。

「そもそも日本人は、自分の権利が憲法に守られているという意識がとぼしい。日本の女性は良く憲法を読んで、自分にどんな権利が保障されているかを頭に入れてほしいのです」

「憲法は弱い立場の人々の味方です。ただし憲法に書いておけば、おまじないのように何でもすぐに実現できるとおもうのは間違いです。有権者が憲法のなかみをしっかり理解して、じぶんたちの権利を主張しなければ何も起こらないのです。でないと、宝(憲法)は、持ち腐れになるばかりでなく、うっかりすると奪い返されてしまいます」


人生の第二幕へ

1946年10月18日、ベアテの両親は日本を去り、アメリカへ向かいました。
レオ・シロタがウクライナを後にしてから半世紀の歳月が流れていました。

ベアテの両親は戦時中、憲兵や特高警察の監視を受け、厳寒の軽井沢に軟禁されて生死の境をさまよいましたが、ベアテに救われて、東京へもどりました。

敗戦直後の東京・・・シロタ家にとって見覚えのある風景がひろがっていました。
飢餓、欠乏、暴力、ヤミ商売の蔓延、権力者の腐敗。
まさしく第一次大戦後のウィーンの荒廃そのものです。

翌1947年、24歳のベアテは両親のあとを追って、アメリカに帰国しました。
翌年、ジョセフ・ゴードンと結婚。あたらしい人生にのりだします。

ベアテの物語は、まだ終わりません。(第14回へ続く)

【FEEL ! WORLD】
「戦争の親玉」

ベアテは、亡命ウクラニアンの娘として、迫害の怖ろしさ、人権が守られることの価値を知っていました。人権の価値をほんとうに知るのは、人権がふみにじられる恐怖を知る人間だけかもしれません。

9月21日、プーチンは予備役30万人の部分的動員令に踏み切りました。100万人の動員であるという情報もあります。反発と混乱が全土にひろがっています。
警官隊が徴兵に抗議する若者に容赦なく暴力をふるっています。

権力者の息子は徴兵されません。
ダゲスタンやクリミアではモスクワよりも高率で徴兵されるため、激しい抗議が起きています。辺境の若者は貧しく、ほかの国へ逃げるお金はありません。

前線に送られる兵士のほとんどは、辺境の民族、アジア系の民族です。モスクワには、コーカサスや中央アジアから来た多くの出稼ぎ労働者が低賃金で働いていますが、モスクワのスラブ系白人はかれらを「チュールカ」という侮蔑語でよんでいます。北半球一の格差社会ロシアには、露骨な差別が存在します。兵士の生命まで差別されているのです。

召集令状一枚で、出征を強要される。兵士の命は消耗品のようにあつかわれる。捕虜になるのは許されない。
親の世代(戦中派)から聞かされた戦時中のはなしをおもいだします。

まさに20世紀の悪夢の再演です。
プーチンの理不尽な侵略行為は、満洲における関東軍の暴走、ムッソリーニのエチオピア侵略、ヒトラーによるチェコやポーランドの占領、スターリンによる東欧支配のやりくちを思い起こさせます。

国際法を平気でふみにじる。「自衛のための戦争」と称して侵略、事件を捏造して他国に罪をかぶせる。傀儡政権をつくって既成事実をつくる。嘘八百の宣伝で黒を白と言い続ける。非戦闘員を虐殺する。略奪に走る。拷問。性暴力。

プーチンの矮小な脳髄にとりつく「ユーラシア主義」の誇大妄想も、「大東亜共栄圏」やヒトラーの「東方植民計画」の焼き直しにおもえます。
権力者の妄想、空しいホラ話ゆえ、いずれ破綻することは目に見えています。

サラ・マリア・サンダーというベルリンで活躍する若い女性ミュージシャンが、プーチンを告発するプロテスト・ソング「戦争の親玉」を歌っています。
この歌は、60年前の「キューバ危機」と「死の商人」を題材にボブ・ディランがつくったプロテスト・ソングの傑作を、2022年のロシア侵略とプーチンにおきかえたものです。

▶▶ サラ・マリア・サンダー「戦争の親玉」
https://www.youtube.com/watch?v=je_PZngu9D0

サラの両親はソ連からドイツに逃げてきたユダヤ系アゼルバイジャン人、プーチンに抵抗する若者と連帯して、人権を守るたたかいを支援しています。
ウクライナにおける「特別軍事作戦」を2月24日に開始すると宣言するプーチンの演説が冒頭に出てきます。「完璧な計画ゆえ成功に終わる」と断言しています。

ロシアの警察が戦争への抗議を弾圧する映像は、9月21日の映像とそっくりです。スターリンのころから変わりません。暴力でしめあげるのです。

こちらはオリジナルの「戦争の親玉」です。日本語字幕があるので、こちらを先にご覧いただくといいかもしれません。

▶▶ ボブ・ディラン「戦争の親玉」オリジナル ※日本語字幕あり
https://www.youtube.com/watch?v=myN_pqp6QBw

ちなみにボブ・ディランの家族のルーツはウクライナです。
歌詞のさわりを紹介します。今日つくられた歌であるかのように聞こえます。

出てこい戦争の親玉 
壁のむこうに隠れるおまえ 机の後ろに隠れるおまえ
化けの皮は剥げてるんだ ひとを嘘であざむく おまえの脳がすけてみえる 

戦場へ行くのはおれたちだ 
お前は安楽椅子から見ている 死人の数がふえていくのを 
おまえが豪邸に隠れているあいだに 
若い兵士の身体から 血があふれ出て 泥に染みる

おまえは恐怖をばらまいた ばらまけるだけばらまいた
こんな世界にこどもたちを 産んではいけない気にさせた
どんな寛大な神様だって おまえのことは許すまい

青ざめた午後に おまえの死骸がおろされる 
たしかに死んだとわかるまで おまえの墓をふみしめてやる

 

京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。