7月からNHK総合でレギュラー放送されている「笑わない数学」が評判だ。
お笑いトリオ「パンサー」の尾形貴弘さんが案内役をつとめ、毎回、数学の難問についての解説に果敢に挑戦する。

これまでとりあげられてきたのは、パイロット番組も含めて、『フェルマーの最終定理』、『素数』、『無限』、『四色問題』、『P対NP問題』、『ポアンカレ予想』、『虚数』と、どれも数学において最重要の概念や、難しい問題ばかり。専門の数学者でさえ頭を悩ませるテーマに、尾形さんがまっすぐに挑むその姿が共感を呼ぶ。

『虚数』(8月17日放送)では、2乗するとマイナス1になるという「不思議」な虚数の単位、「i」の発見について、そもそも人類はどうやって数の概念を拡大してきたのかということにさかのぼって解説していた。

番組は、尾形さんが白バックのスタジオで大きなホワイトボードを用いて説明や証明を行う部分と、ビデオの部分に分かれる。ビデオのナレーターはNHKアナウンサーの合原明子さん。時々取り乱してしまう尾形さんの語りに対して、あくまでも冷静な合原さんの話しぶりが好対照だ。

ビデオの部分はNHKらしく工夫されている。リンゴと杭に巻かれたロープを提示して、どちらも「3」だと説明。ソーセージを切り分けることで「分数」の概念を、土地の測量を通して分数で表せる「有理数」を説き起こすのはテレビならではの展開だ。

序盤のハイライトは三平方の定理で有名な古代ギリシャのピタゴラス。「万物は数である」と信じる教団を率いていたピタゴラスにとって、分数で表せない「無理数」の存在は許せないことだった。その結果起こった驚がくの事件が、数学をぐっと人間の方に引き寄せる。

スタジオに戻り、尾形さんが2の平方根が無理数であることを「背理法」で証明する。時折、スタッフの「はまちゃん」が「順調だけど面白くない」、「理解できていますか? それともやめますか?」などとツッコむ中、あくまでも真面目に証明をやり切る尾形さんの姿に高感度が増す。

いよいよ、番組は核心部分に。7世紀頃のインドで「0」が発見されたこと、そして16世紀のイタリアで、ジェロラモ・カルダーノの成果を受けて、ラファエル・ボンベリが行った研究で虚数の正体が見え始めたことを伝える。さらに、天才数学者レオンハルト・オイラーが「i」という虚数の表記を考案し、自然対数の底「e」、円周率「π」、そして自然数「1」を結びつける、「世界で最も美しい数式」とも呼ばれる「オイラーの公式」を発見するあたりで知的興奮は頂点に。

感心するのは、尾形さんが一生懸命に証明する姿を「エンタメ」として昇華しつつ、内容については全く妥協せずにレベルを落としていないこと。フリードリッヒ・ガウスの「代数学の基本定理」や、量子力学の「シュレディンガー方程式」における虚数の役割にまで触れることで、幅広い視聴者に知の根幹を伝えるという公共放送としての役割を十全に果たしている。

英語圏における「数学の伝道師」とも言える、ウォーリック大学のイアン・スチュワート博士のインタビューも交えるなど、「エンタメ」であり同時に「本格」であるという独創の番組フォーマット。まさに、NHKらしい新しい放送文化の創造に貢献している。

制作統括は、井手真也さん、宮坂佳代子さん、そして植松秀樹さん。井手真也さんや植松秀樹さんは「リーマン予想」や「ポアンカレ予想」などについて多くのすぐれた数学の番組をつくり、科学ジャーナリスト大賞も受けられている。宮坂佳代子さんは直木賞受賞作の小説を題材にした「大人女子のアニメタイム」などのユニークな番組で知られる。制作協力は、アカデミー外国語映画賞に輝いた『ベイビー・ブローカー』の是枝裕和監督もかつて在籍していたテレビマンユニオン。

まさに「志の共同体」とも言えるスタッフに囲まれて、パンサーの尾形貴弘さんの奮闘がどのように進化していくのか、そして、どんな数学の神髄を伝えてくれるのか、これからがますます楽しみだ。

1962年、東京生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て、「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究。文芸評論、美術評論などにも取り組む。NHKでは、〈プロフェッショナル 仕事の流儀〉キャスターほか、多くの番組に出演。