自由奔放といっていいほど、自分の意志に忠実な生きかたを貫く政子が、流人頼朝との愛を実らせるのは、1177(治承元)年のことだといわれています。 翌年にはふたりの間に長女(大姫)が生まれます。
政子の父時政が京都の事情にくわしいのは、いくつかの理由があります。ひとつは時政が平家の一族だったからです。
先祖は、上総介(上総国=現在の千葉県を治める地方官庁の次官)などを務めた平直方です。時政の父は北条四郎時方(あるいは直時)といい、代々伊豆国田方郡北条を拠点とする在庁官人だ、と伝えられています。
したがって時政は、都本社ともいうべき平家の動向には、つねに耳を立て目を大きくひらいて情報を集めていました。
もうひとつは、頼朝の乳母の妹の子で朝廷の太政官書記を務める中級公家の三善康信が、毎月3回必ず〝京都情報〟を頼朝のもとに届けていたことです。
清盛筋から頼朝の監視役を命ぜられている時政は、当然この情報も手にします。さらに政子が頼朝と結びついた1177年は、翌年にかけて時政は「京都大番役」を命ぜられ、在洛中でした。
ですから俗な言葉を使えば政子が恋を実らせたのは、「鬼(親)のいぬ間」 の出来事だったのです。このことはすぐ時政の耳にはいったでしょう。
まだ平家に忠節をつくす時政にすれば、思わず、「娘のやつめ、弱ったことをしてくれた!」 と思ったにちがいありません。時政はその処理のために急きょ伊豆に戻ってきたのだ、と思います。
しかしかれの対応方法は、頼朝のもうひとりの監視役、伊東祐親とはちがいました。その内容はドラマの進展にかかわりがあるのでひかえますが、やはり〝時代の空気〟の影響だと思い ます。時政は次第に頼朝を支持するようになります。
これは、「自分の属する平家を見限って、 敵である源氏に味方する」 ということになります。なぜそうなるのでしょう?
ひとつは費用を自己負担させられる「大番役」という務めのバカバカしさです。
ふたつ目は清盛一門の栄華栄達ぶりです。
そして3つ目は〝地方武士〟としての存在の不安感です。これは平家も源氏も関係ありません。すべて中央政権の考えひとつなのです。
情報を集めれば集めるほど、時政は平家に不安を感じたでしょう。
(NHKウイークリーステラ 2012年10月5日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。