頼盛は忠盛と池殿(池禅尼)との間に生まれた清盛の異母弟です。清盛はこのことをそれほど意識していなかったと思いますが、頼盛はこだわりました。自分が出世できないのは、清盛が邪魔をしているからだ、と考えます。
ふたりが子どものときから仲が悪かったのは、家に伝わる宝刀の与えられ方にあった、という説があります。小烏と抜丸という2本の宝刀のうち、頼盛は小烏がほしかったのですが、これが清盛に与えられてしまいました。頼盛はくやしがり、“これも母がちがうためだ”と考えたといわれます。
頼盛は早くから後白河に接近し、その寵臣となって位階も従三位へと昇り、官職も安芸守をスタートに、中務権大輔・常陸介・三河守・修理大夫・大宰大弐・参議などを歴任します。
本人がひがむほど出世がおくれたとは思えないのですが、清盛が出家した1168(仁安3)年の11月28日に、突然解官されました。理由は「職務怠慢」です。ほんとうは息子の保盛の過失が理由なのですが父子ともに解官されました。この命を下したのは後白河です。
清盛との関係改善につとめていた後白河の、いってみれば“寵臣斬り”のような、政治的においの強い人事です。また、ドラマの後半における清盛の頼盛への心情の吐露も、見方によっては“抱きこみ”といえるでしょう。
さらに頼盛は嚴島神社への信仰があつく、単独で参詣したり寄進したりしていました。嚴島神社を平氏の氏神ではなく「国家鎮護」のお宮にしたい、と願う清盛にすれば、頼盛をオダてる大きなチャンスにもなったでしょう。
というよりも、
「長年の不和を忘れて、わしの理想に協力してくれ」
という本心からの依頼だったかもしれません。しかし、
「清盛と頼盛は仲が悪い」
といううわさは都だけでなく地方にも流れました。
これをきいてしばしば頼盛になぐさめの手紙を送ってきたのが、伊豆にいる流人頼朝です。
「あなたの母上のおかげでわたしは命を助けられました。ご恩はけっして忘れません。どうかあなたもご自重ください」
という意味深長な内容です。頼盛は平家滅亡の合戦には参加しません。後白河を仲介に頼朝に身を預け復位復官します。のちのことです。
(NHKウイークリーステラ 2012年9月14日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。