イヤーレ 船頭かわいやホレ音戸の瀬戸でョ 一丈五尺のヤーレ櫓がしわるョー
ここは音戸の瀬戸 清盛塚の岩に渦潮ドンとヤレぶちあたる
広島県の代表的な民謡のひとつ、「音戸の舟唄」の一節です。
現在“音戸の瀬戸”は瀬戸内銀座と呼ばれるように、船の往来が激しいですね。この海峡には、1916(昭和36)年に音戸大橋がかけられました。広島県呉市の本土側南端と、倉橋島北端の同市音戸町の間にある音戸の瀬戸は、昔は潮がひくと歩いて渡れたそうです。それを船の航行の便を高めるため、海峡の開発を行ったのが清盛です。
この工事については、伝説があります。清盛が設定した工期は3か月。しかし、完成予定日になっても仕上がっていませんでした。最終日の太陽は西の空に落ちかかっています。
「どうしましょう?」
工事責任者はオロオロしながら清盛に相談します。清盛は、
「わしに任せろ」
といって持っていた扇を開きました。そして、静かにあおぎながら落日に向かって
「日輪よ、戻ってこい」
と告げたのです。
すると落ちかかっていた太陽が空に戻り、ついに工期に間に合ったそうです。“ウソー”と言いたくなる話ですが、このころの清盛の権勢がいかに強いものであったかをもの語る伝説です。
嚴島神社の神主、佐伯景弘に同社の大規模な整備拡大を依頼したときの清盛は、従一位太政大臣であり、安芸国(広島県)の国主でもありました。
息子の重盛は大納言でした。1167(仁安2)年5月11日に、後白河上皇は「諸国の山賊、海賊追討令」を出します。その7日後に清盛は、太政大臣を辞任。なんとも慌ただしい行動ぶりです。
隣国の宋の治政が安定し、“日本との貿易を盛んにしたい”と申し入れてきたので、清盛は、これをまず独占しようと考えたのです。海賊の取りしまりは“密貿易の禁止”を意味します。
しかし、清盛に従属する者にはおコボレを与えたので、海賊は感謝しました。音戸の開発・嚴島神社の拡大は、すべて清盛の日宋貿易の拡大のためです。これがさらに、大輪田の泊の経ヶ島の建設、福原の別邸設置に発展していきます。
(NHKウイークリーステラ 2012年8月31日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。