聞き手 渡邉幹雄
認知症でいちばん悩んでいるのは本人
——ご両親の日常を描くドキュメンタリーの 制作は、迷いなく始められたんですか?
信友 私、家庭用のビデオカメラで映像を撮るのが趣味で、父と母のことも2000年ごろから撮っていたんですね。母が認知症になってからもずっと撮り続けていたのを番組にしようっていうことになって。二人が元気なうちに放送するのはどうかなと思ってたんですが、父に相談したら「わしはあんたのやりたいことにいくらでも協力するよ」って言ってくれて。放送するとすごく反響があって、映画化までどんどん進んでいったんです。
——映画のタイトルがすごく印象的ですが、 これは実際にお母様が発せられた言葉?
信友 そうなんです。2017年のお正月に、「今年はぼけますから、よろしくお願いします」って母が言ったんです。新年の抱負ですね(笑)。
——観客数が20万以上。ドキュメンタリー映画としてはすごい数字ですよね。
信友 うちの父と母は本当にごく普通の人だったので、観客の皆さんが自分たちに重ねて見やすかったんじゃないかなと思います。
カメラの前で、母は「私はなんでこういうふうになったんかね。お父さんと直子に迷惑かけてまで、ここにおったらいけんのじゃないかね」といろんな葛藤を話してくれました。 私、それまでは認知症になると何も分からなくなって、あまり悩むこともないのかと思ってたんですが、実は本人がいちばん自分の異変に気付いていて不安や悩みを抱えている。だから、家族はその本人にどう寄り添えばいいのかを考えてほしい、ということを皆さんにお伝えしたかったんです。
認知機能テストでほぼ満点だった母
——10年ぐらい前に、お母様がアルツハイマ ー病だと分かったきっかけは何ですか?
信友 私は東京で仕事をしていて、広島県呉市の実家に住む母へは、以前から毎日のように電話してたんですけど、あるとき母が「今日はこんなことがあってね」と話した内容が、 前に聞いた話と同じだったんですよ。そこに「あれ?」と疑問を感じたところからですね。
実家に帰ると、父も「最近、おっ母は怒りっぽうなって。何かわしが言うと〝私がおかしゅうなったけん、そうなことを言うんじゃろう〞と怒るんじゃ」と言ってて。
——それからお母様を病院に連れていかれたそうですね。
信友 母に病院での検査を勧めたら、案外素直に言うことを聞いてくれました。認知機能のテストを受けたところ30点満点中29点を取り、認知症と診断されなかったので母はすごく喜んでました。今考えると、母は自分の異変に私や父よりも先に気付いていて、でも認めたくなかったんですね。だから認知症ではない、というお墨付きが欲しくていろいろ調べるうちに、テストの存在を知って事前に予習をしたようでした。
約1年半後に再びテストしたときは、もう予習をする気力もなかったようで。「今日は何月何日ですか」という質問に、1回目は「何月何日」とすぐ答えたのに、2回目は私に「何日だったかいね」と聞くんです。「症状が進行している」と思い知らされました。
——当時の信友さんは東京暮らしで、呉市まではそうそう通えませんよね、仕事もあるし。
信友 父は当時93歳で耳も遠いですし、父だけに任せるのは難しいんじゃないかと思って「東京から引き揚げようか?」と提案もしました。すると父は「わしが元気なうちはわしが面倒見るけん、東京の仕事を続けんさい」と言ってくれました。父は若いころ、英語学を学びたかったんですが戦争のためかなわず、ずっと無念の思いを抱えて生きてきました。だから、「とにかくやりたいことを見つけてそれをやりなさい」というのが、信友家唯一の教育方針だったんですね。
(後編へ続く)
※この記事は、2022年5月3日放送「ラジオ深夜便」の「認知症の母と支えた父の物語」を再構成したものです。
映画監督
(月刊誌『ラジオ深夜便』2022年8月号より)
購入・定期購読はこちら
12月号のおすすめ記事👇
▼前しか向かない、だから元気! 池畑慎之介
▼闘う現代美術家 村上隆の世界
▼毎日が終活 菊田あや子
▼深い呼吸で心を穏やかに 本間生夫 ほか