院政(上皇あるいは法皇が院庁でおこなう政治)という、変則な政治形態をはじめたのは白河法皇です。白河の院政は堀河・鳥羽・崇徳の3天皇43年間におよびます。

堀河天皇は応徳3(1086)年即位、嘉承2(1107)年に亡くなりました。在位21年のかなり長期政権です。しかし実質的には白河法皇の院政です。にもかかわらず堀河天皇は温厚仁慈の人柄で、“末代の賢王”とよばれました。

和歌管絃の道にくわしく、ご自身もしょうと笛の達人だったといわれます。院政にふりまわされる日常の憂さを、芸能にうちこむことで晴らしていたのでしょうか。ただこの天皇のときに村上源氏の武士が重用されはじめます。

堀河天皇のあとは鳥羽天皇がつぐことになります。嘉承2年7月19日のことですが、このとき天皇はわずか満4歳でした。祖父白河法皇の院政はいよいよ本格化します。

イラスト/太田冬美

その女御(すぐ皇后になる)藤原たま(待賢門院)が皇子を生むと、白河は天皇にこの皇子への譲位をせまります。

保安4(1123)年1月28日に皇子が天皇になりました。崇徳天皇です。しかしその後、白河が亡くなったあとは鳥羽上皇が法皇となって、祖父以上の院政をおこないます。

そして鳥羽法皇は白河がしりぞけていた摂関家藤原一族をふたたび重くもちいます。また白河がちょうあいした待賢門院をしりぞけ、藤原なり(のちの美福門院)を女御にします。

そして得子の生んだ皇子への譲位を崇徳にせまります。新天皇は近衛天皇で、退位させられた崇徳天皇は上皇になりますが、胸のなかは不満でいっぱいです。

清盛が青年時代をすごす時代背景はこのように複雑怪奇なのです。すなわち、
・院(上皇・法皇)と現天皇の意図によってふりまわされる藤原一族とその内部の争い
・その藤原一族出身の女御や皇后(中宮)の争いもうずをまきます。

まだまだ“3盤(地盤・看板(名)・カバン(財力))”がモノをいう時代です。いかにイキがろうと清盛には手も足も出ませんでした。

(NHKウイークリーステラ 2012年1月27日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。