2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはまったく別の視点で、平安時代末期を描いたのが2012年大河ドラマ「平清盛」だ。その放送時に、NHKウイークリーステラにて人気を博した歴史コラム、「童門冬二のメディア瓦版」を特別に掲載!

愛知県の南部にカニがハサミを立てているような半島がふたつあります。知多半島と渥美半島です。その知多半島の突端ちかくに「内海」というところがあります。

1159(平治元)年12月28日に、清盛に敗れた義朝が都からの逃亡の末、上陸した港です。ここには夏、名古屋方面でしごとがあると、ぼくが立ち寄る美しい海水浴場があります。

水がきれいで、民宿の学生アルバイトの方たちの親切さには、心があたたまります。「いまの若いヤツは」とボヤくオトナがたくさんいますが、ここの若者に接すれば「いまの若いヤツはなんてりっぱなんだ」と、称賛にかわるでしょう。

さて京都を脱した義朝は鎌倉にのがれるため、まず美濃の青墓(岐阜県大垣市)に出て舟に乗り、木曽川を下って尾張海部の荷之上(愛知県弥富市)に出、伊勢湾を渡って内海に上陸したのです。

ちかくの野間というところに、家臣の鎌田正清の妻の実家がありました。義朝は、そこのおさただむねかげむね父子を頼ったのです。

内海から山を越える途中、扇という村で村人から、おこわと煮豆をごちそうしてもらいました。義朝たちは主従4人でしたが、空腹のあまり手づかみでおこわを食べたそうです。

イラスト/太田冬美

その姿があまりにも悲しかったので、この村ではその後お正月にモチをつかず、おこわを手づかみで食べる習慣が生まれたそうです。

長田父子はすでに義朝を見放していました。義朝に平家が多額の賞金を懸けていたからです。義朝は年があけた1月3日、入浴中に殺されてしまいました。

「せめて木太刀(木刀)の一本なりとあれば」
というのが義朝の最期のことばと伝えられます。無念さがあふれていますね。この地ではのちに織田信長の子信孝が豊臣(当時は羽柴)秀吉によって自決させられます。

昔より主を討つ身(内海)の
野間なれば むくいを待てや
羽柴筑前

信孝の辞世の句です。“昔より......”の箇所は義朝のことをさしています。“討つ身”と“内海”をひっかけたのです。

1190(建久元)年になって、頼朝はこの地に父義朝のだいをとむらい七堂らんを建てました。のちに秀吉や家康も多額の寄進をおこなったそうです。“敗者人気”は日本人の好みですネ。

(NHKウイークリーステラ 2012年7月20日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。