清盛の出生についてはいままで実父は白河法皇、母は祇園女御ぎおんのにょうご、そして育ての親は忠盛だと伝えられてきました。

しかしその後の研究者の探索によって、実際の生みの母は祇園女御の妹であって、姉に仕えているときに、法皇に愛されたのだという説が有力になりました。

そして懐妊後忠盛の妻になって清盛を生んだというのです。このことは滋賀県犬上郡のこのみや神社で発見された古文書から推定された、といわれます。

さらにこの古文書には、「祇園女御は清盛をゆう(きょうだいの子を自分の養子にすること)にした」と書いてあるそうです。妹である清盛の生母が早く死んだか
らです。とすると清盛は伯母さんである女御に育てられ、その伯母さんは養父忠盛と夫婦にはならなかったのか、などという問題もおこってきます。

が、そんなうるさい詮索はやめましょう。いえるのは、清盛は幼いころは必ずしも母の愛にめぐまれなかった、ということです。その分養父の忠盛が異常な愛をそそぎます。目的があるからです。そしてこの忠盛の異常な愛情はその父(清盛の祖父)正盛以来のもので、前二代にわたるこの愛が、実をいえば清盛の将来を決定します。

端的にいえば清盛の一族がのちに、「平氏にあらざれば人にあらず」という、大変な豪語をはなつ動機になるのです。この豪語の背景には、単に平家一門ののしあがりとその栄華の誇りだけではなく、「日本の社会を公家から武士の世にした」というイミもふくまれます。

イラスト/太田冬美

大河ドラマ「平清盛」では、忠盛が法皇から盗賊征伐を命ぜられますが、これは忠盛が願いでたものです。ライバルの源氏も願いでていたからです。武士が名をあげるのは武名によってです。それには“社会の敵”である盗賊を捕らえるのがいちばん手っとり早いのです。

忠盛はその後瀬戸内海の海賊征伐にものりだします。ここでよけいなおせわですが〈平清盛〉のドラマをたのしむために、基本的なメモをつけ加えます。

・清盛の時代の男女関係は、後世のような(儒教によるような)きびしいものではなかったこと。わるくいえばラフ、よくいえばおおらかだったことです。

(NHKウイークリーステラ 2012年1月13日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。