2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはまったく別の視点で、平安時代末期を描いたのが2012年大河ドラマ「平清盛」だ。その放送時に、NHKウイークリーステラにて人気を博した歴史コラム、「童門冬二のメディア瓦版」を特別に掲載!

“保元の乱”でいちばんあきらかになったのが、さまざまな“パワー=力”の存在です。勝った側は、
「パワー(権力)というのは、これほど世(社会)を左右できるものなのか」
と、改めてその力の強大さを認識します。

負けた側は自分たちの“失ったパワー”の大きさに、深い悔恨のきもちをもちます。そして、清盛や義朝たちがさとったのは、
「武士はもはや皇室や公家の番犬ではないぞ。われわれは政治のうごきを決定しうる大きな勢力(パワー)なのだ」
という誇りと自覚です。武力という暴力だけの存在ではなく、“考える武力”に成長したのです。

そうなると天皇の親政や、上(法)皇の院政を補佐してきた公家も、いままでどおりではすみません。“時代に適応する新しい公家像”がもとめられます。信西しんぜい信頼のぶよりはその代表です。

1158(保元3)年、つまり乱の翌々年8月11日、後白河天皇は守仁もりひと親王に譲位しました。守仁親王は二条天皇になり、後白河は上皇として院庁を設け、堂々と院政を開始します。

その院政は二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代の天皇にわたり、実に30余年の長さになりました。現在の内閣総理大臣などの任期を1期4年とすれば、後白河はなんと7期半もそのポストにあったことになります。長期政権です。

イラスト/太田冬美

当初この院政を補佐したのが、信西と信頼です。信西については前に書きました。今回信頼についておもしろい記述を見つけました。出典はぼくの“企業秘密”なのであきらかにしませんが、ある歴史書のなかの一節です。こう書いてあります。

「信頼は、たいしてとりえのある人物ではなかったが、人のきげんをとることのじょうずな太鼓もち(おべっかつかい)で、いつのまにか後白河天皇にとりいってかわいがられ、保元の乱以後は官位の昇進もめざましく、わずか26歳でごんちゅうごんになり、院政がはじまると、院庁の別当(長官)となって、実権をにぎるようになった。だから信西とは自然にライバルの立場になってきた」

まさに“生きた歴史”ともいえる描写ですね。『ステラ』の原稿を書くときに、ぼくがぜったいに手放さない、タネ本なのです。

(NHKウイークリーステラ 2012年6月29日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。