20代半ばで輪島塗に魅了され、編集者から漆職人へ転身した赤木明登さん(62歳)。2024年、たび重なる自然災害に見舞われた石川県輪島市で、能登の伝統工芸品を守っていきたいと、仲間とともに制作を続けています。赤木さんが、能登の自然の豊かさや漆器を通して伝えたいことなどを語ります。
聞き手 牛窪万里子この記事は、月刊誌『ラジオ深夜便』2025年3月号(2/18発売)より抜粋して紹介しています。

あかぎ・あきと
1962(昭和37)年、岡山県生まれ。中央大学文学部哲学科卒業。東京の出版社の編集者を経て、’88年に石川県輪島市へ移住。6年の修業を経て、’94(平成6)年に独立。以後、漆作家 として器を作りながら、執筆活動も行っている。
漆器に感じる生命力を求めて
――赤木さんは編集者から漆職人に転身されたそうですが、何がきっかけでしたか?
赤木 僕はお茶やお花をたしなみ、工芸もとても好きでしたので、そういう展覧会をよく見て回っていました。あるとき輪島塗の作家・角偉三郎さんの展覧会で、その作品に魅せられたんです。
会場に並んだ、お椀や重箱、大きなお盆などを見たとき、物なのに“物質を超えた生命力”を感じました。お椀なのに口がついていて話しかけてくるような、重箱があぐらをかいて腕を組み、こちらをギロッと見ているような、まるで生きているみたいに見えて。これは漆というものがすごいのか、角偉三郎という作家がすごいのか、よく分からないけれど、とにかく迫力に圧倒されました。
その後輪島を訪ね、角さんや輪島塗の職人さんたちと一緒に飲んだんです。“職人の矜持”という言葉がありますが、自分の技術に誇りを持つ職人さんたちが、すごくかっこよく見えた。それに比べて、25歳の僕は、自分の中に何にもないような感じがして。気が付いたら「輪島に移住して職人になります」と宣言していました。
――当時は出版社勤務だったそうですが、いきなりの転身に不安はなかったのですか?
赤木 編集者として雑誌の連載を担当していたので、1、2年かけて仕事を整理し、円満退社しました。妻は僕と同じく楽観的で、すぐに納得してくれましたが、僕の親にはあきれられました。
でも、何をやってもうまくいくような、妙な自信があって。そのころはバブル経済真っただ中で、それもよかったんだと思います。
――実際に漆塗りの職人になって、自分には向かない、とはならなかったのですか?
赤木 実は、輪島塗のことを何も知らずに移住したのですが、幸運なことに僕の性格に合っていました。
輪島塗は日本人の精神性を支える器、という赤木さん。地震と豪雨を乗り越えて未来へとつないでいきたいと語る、お話の続きは月刊誌『ラジオ深夜便』3月号をご覧ください。
※この記事は2024年11月11日放送「輪島塗の原点を探求して」を再構成したものです。
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