1973(昭和48)年に「なみだの操」で一世をふうした殿さまキングス*1みやオサムさん(82歳)はボーカルとドラムを担当し、その人気を支えました。もとはコミックバンドだった「殿とのキン」が人気歌謡コーラスグループになった経緯とは? 解散後もソロとして活躍を続ける“オサムちゃん”が、これまでの歩みと今を語ります。

*1 1967年に結成した日本の音楽グループで、愛称は「殿キン」。’90年に解散。

聞き手 徳田章この記事は、月刊誌『ラジオ深夜便』2025年3月号(2/18発売)より抜粋して紹介しています。


小田原の酔客が歌の師匠

──「なみだの操」の大ヒットから約半世紀がたちましたね。

宮路 そうですね。僕が、というよりは、当時この歌が大好きで、今は70代、80代となった皆さんが元気で頑張っておられるので、歌もいまだに生き残っているんでしょうね。

──デビュー前は神奈川県の小田原で流しをされていたと伺いましたが。

宮路 僕は常磐炭田のある北茨城で育ったんです。うちが貧しいのは子どものころから感じていましたから、「将来は親のために炭鉱で働こう」なんて格好いいことを考えていたら、閉山になっちゃった。

これはだめだと思い、上京して喫茶店や花屋の店員などいろんな仕事をしたけれど、何をやっても身につかない。ある日、新宿の場外馬券場でたまたま拾った競馬新聞を眺めていたら、「小田原で歌手募集」と書いてあったんですね。

もとから歌手になりたかったので、“意外なところできっかけができたな”と思って行ってみたら、歌手というよりも流しの募集で、いやおうなしに歌うことになりました。

実はおもしろいことに、僕には歌のお師匠さんがいません。当時、街でお客さんからリクエストをいただいて歌うと、よく「お前ね、歌い方が違うよ。この歌はこういうふうに歌うんだ」と教えられたものでした。だから、僕は小田原の酔っ払いに育てられた歌い手なんです(笑)。


「なみだの操」誕生秘話

──1967年には殿さまキングスを結成。そのころになると、結構将来が開けてきたのではないでしょうか。

宮路 はい、先が見通せるようになってきました。最初はお笑いだけでしたが途中で歌も歌おうということになって、自主制作で2曲ほど出したんです。ハナ肇とクレイジーキャッツやザ・ドリフターズが歌っているようなコミックソングをね。でも、全然売れませんでした。

そうこうしているうちに、大阪のぴんからトリオ*2さんの「女のみち」が大ヒットしたんです。すると、僕たちの所属レコード会社が「あいつらには勝てそうだな。コミックソングではなく、まともに演歌を歌え」と言いだして(笑)。

そのあとは、まだぴんからさんに追いついていないのに、“西のぴんから、東の殿キン”などと追いついたかのような話題作りが先行して、後から歌が売れていった感じです。

*2 1963年に、宮史郎、宮五郎(史郎の兄)、並木ひろしが結成した音曲漫才トリオ。’73年に並木が脱退し、「ぴんから兄弟」として活動ののち、’83年に解散。

──そのころ、後に「なみだの操」を作曲されるさいまささんに、作曲を依頼しに行ったと聞きました。

宮路 最初、彩木先生からは「お笑いグループの曲は書きたくない」と断られました。それでも、僕たちには先生の曲が合うと思っていたので諦めきれず、一人で先生がいる北海道までお願いしに行ったんです。

※この記事は2024年12月2日放送「芸の道 輝きつづけて」を再構成したものです。


50年前の「なみだの操」を80代の今も再現して歌うという、宮路さん。2023年にリリースした新曲「卵かけごはん」に込めた思いなど、その半生を語るインタビューは月刊誌『ラジオ深夜便』3月号をご覧ください。

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