「べらぼう」では、蔦屋重三郎の盟友として大活躍の平賀源内。
生まれは讃岐国寒川郡、現在の香川県さぬき市で(享保13年/1728年)、20代半ばで長崎に遊学します。そこで西洋の知識に触れた後、大坂を経て、江戸に上がりました。
宝暦7年(1757)江戸の学問の中心である「湯島聖堂」に入門し、当時流行していた“本草学”などを学びました(蔦重は1750年生まれですから、まだ7歳のころですね)。
今回は、蔦重と出会うずっと前、若き源内が学び、自身の礎を築いた湯島聖堂を訪ねます。
※この記事は、NHK財団が千代田区観光協会と一緒に制作するPR冊子のための取材をもとに構成したものです
JR御茶ノ水駅を出て“聖橋”を渡ってすぐ右手に「湯島聖堂」があります。
(この橋は連続テレビ小説「虎に翼」に何度も登場していましたね)

江戸初期の儒学者・林羅山が上野に開いた私塾を、五代将軍綱吉が元禄3年(1690)ここ湯島に移し、「官学の府」としました。これが湯島聖堂の始まりです

平賀源内がこの湯島聖堂に入門したのは宝暦7年6月2日、29歳のときでした。
彼が学んだ本草学は、薬に使う植物、動物、鉱物などを研究する学問で、当時、将軍吉宗のもとで全盛を極めていました。源内は、薬材や、植物・鉱物などの天然の産物を展示・交換する「薬品会」をここ湯島などで自ら開くまでになりました。
特に宝暦12年(1762)に湯島天神前で主催した第5回の薬品会「東都薬品会」では、チラシを配って全国から物産を求め、日本で最初の博覧会とも評されるほどの規模であったといいます。

ちなみに、第1回の薬品会には、『解体新書』の翻訳にかかわった中川淳庵も出品者として参加していました。また生涯を通じて親しく交流した杉田玄白とも、薬品会を通じて知り合ったそうです。
源内は宝暦7年から3年間ほど湯島聖堂に寄宿していたと言われています。
「残念ながら、詳しいことはわかっていません。当時の記録は火災や震災で焼失しています」と話すのは、湯島聖堂の清水義徳さん。
清水さん「源内は本草学者に弟子入りした後に、湯島聖堂に入門しています。さらにここで本草学を含めた漢学を修めたことは、源内の本草家としての名を高め、人的広がりを得ることにつながりました。彼のその後の活動・業績を考える上で重要なことだったのではないでしょうか」

源内や蔦重が活躍した18世紀の後半、1761年~1786年にかけて、湯島聖堂は度重なる大火に遭い、規模を縮小せざるを得ませんでした。
清水さん「聖堂を訪れ、その落ちぶれた姿を目の当たりにした老中・松平定信は、てこ入れをし、規模を拡張しました。後に、私塾ではなく、幕府直轄の「昌平坂学問所」として再び発展することにつながります」
――その定信の政策の中に「寛政異学の禁」があります。学問を締め付けたようなイメージですが?
清水さん「他の学問を禁止したということではありません。儒学のうち朱子学を主に学ばせるように林家に指示したということです。人材発掘のために“学問吟味”という試験制度を実施するなど、定信は近世の学問の発展に寄与した重要な人物なのです」
―――湯島聖堂はその権威的な位置づけもあって、武士階級だけの閉鎖的な学問所だったのかと思っていましたが?
清水さん「聖堂は、開かれた学問の場でもありました。町人たちが無料で聴講できる「仰高門日講」と呼ばれる儒学の公開講義なども盛んに行っていました。“日講”は毎日行われ、常に人であふれかえっていたようです」

明治4年、湯島聖堂は当時の文部省によって開催された博覧会の会場となりました。大成殿は「博物館」と称されるようになり、博覧会後に博物館の機能は上野へ移転。現在の東京国立博物館や国立科学博物館の元になりました。
「筑波大学やお茶の水女子大学、東京大学も、湯島聖堂がその源流とされています」(清水さん)。
湯島聖堂には合格を祈願する無数の絵馬が奉納されています。お守りも買うことができます。

清水さん「湯島聖堂は宗教施設ではありませんが、孔子などが祀られていることから、学問の神様のような印象を持たれていて、絵馬を奉納する場所を設けてほしい、お守りを売ってほしい、といった多くの声にお応えしました」

平賀源内も学んだ湯島聖堂は、近代教育を発展させた、まさに学問の聖地なのです。
(取材・文 平岡大典[NHK財団])
(取材協力:千代田区観光協会、公益財団法人・斯文会)
主要参考文献:芳賀徹『平賀源内』ちくま学芸文庫
この記事は、NHK財団が制作するPR冊子「『べらぼう』+千代田区観光協会」(4月以降配布開始予定)のために取材した際の情報をもとに構成したものです。
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