NHK放送博物館の川村です。
ラジオ放送開始から約100年。全国にはNHKの放送局が東京の放送センターを含めて54局、民間の放送事業者はコミュニティラジオ局も含めると527社もあります(総務省『令和4年版 情報通信白書』より)。
NHKに関してはこの54局のほぼすべてが開局以来、「放送局」として地域の情報発信拠点となり、現在も電波を発信しています。実はこのうちの2局は一度「廃局」を経験し、再び復活を果たしていました。
今回は紆余曲折を経て、現在に至っているNHKの2つの地方局についてご紹介します。
開局5年で消えたJOBG
群馬県の前橋市に、NHKの前身である社団法人日本放送協会の前橋放送局(呼出符号/コールサイン* JOBG)が開局したのは1933(昭和8)年6月23日のことでした。全国でも古く、20番目の開局でした。
* コールサイン……放送や通信などで、無線局を識別する呼び出し符号。NHKは、東京がJOAK、大阪がJOBK、名古屋がJOCKなど。
初代前橋放送局があった場所は現在の場所とは異なり、前橋市の西端、南曲輪町(現前橋市大手町1丁目)の利根川河畔の高台に建てられていました。南曲輪町にあった初代局舎は、1971年に現在の前橋放送局がある元総社町に新局舎が完成・移転するまで使用されていました。
さて、この初代前橋放送局は出力500Wの中波(AM)ラジオ局として開局しました。当時はまだ愛宕山の東京放送局の出力が小さかったため、北関東の受信状況は良好とは言えませんでした。このため絹製品などで商業の中心だったこの地域にも放送局をという声が高まり、前橋放送局の開局につながったのです。
しかし1936年、東京放送局が埼玉県新郷村(現在の羽生市)に建設した新郷送信所の大出力(150kW)運用が始まると、北関東での受信環境が改善されたため、前橋放送局は1938年で放送局としては廃止されてしまいます。現存しているNHKの放送局の中で、いわゆる県庁所在地にある地方局で廃局となったのは、この後ご紹介する戦災で機能停止した沖縄局とこの前橋局だけです。
こうしてJOBGのコールサインはわずか5年で消滅。放送局としては短命な初代前橋局でしたが、電波を出さない「出張所」として業務を続け、局舎は戦後まで存在していました。
前橋局が再び放送局として復活したのは特殊法人としてのNHKになって約20年後の1970年、FM局が開局したことによってふたたびコールサインJOAPが前橋放送局に付与されました。ただこのコールサインはわずか2年でさらに変更され、現在のJOTPになります。
実はFM時代のコールサインJOAPはこの後ご紹介する、もう一つの廃局を経験している沖縄放送局のために開局時に割り当てられていたものだったのです。次はその沖縄放送局の物語です。
戦火に消えた初代JOAP
社団法人時代の日本放送協会沖縄放送局は、太平洋戦争開戦から間もない1942年3月19日に開局しました。しかし戦争によって沖縄の放送は時代の波に翻弄されていきます。戦時中の電波規制によって、放送は開局当初から電力線を利用した有線で行われ、聴取できる地域も限定的でした。
そして戦況が悪化する中、1945年3月23日には米軍の攻撃によって局舎は破壊されてしまい、これ以降沖縄の放送は休止に追い込まれました。放送機能が停止したため、放送局員は軍の無線保守操作などに徴用され、その多くが命を落としています。こうして初代のJOAPは戦火の中で姿を消しました。
沖縄に日本の放送が復活したのは戦後1950年代に入ってからです。当時の沖縄の放送は米軍による放送と1950年代末期に開局した民間放送局によってサービスが提供されてきました。その後、1967年に当時の琉球政府における放送法に基づき、沖縄の公共放送として今のNHK沖縄放送局の前身となる「沖縄放送協会(OHK)」が設立されます。
この時のコールサインはKSGB-TVで、まだアメリカの統治下にあったためアメリカの放送局の呼出符号が割り当てられました。またOHKはテレビのみの放送局として開局したため、ラジオ放送は行っていませんでした。そのためコールサインはテレビ局を示す「-TV」がついた呼出符号だけが存在していました。
その後、1972年に沖縄が日本に返還されたことによって、OHKは日本の放送法に基づく公共放送のNHK沖縄放送局として新たなスタートを切りました。そしてこの時、戦前の沖縄放送局に割り当てられていたJOAPが、前橋放送局から沖縄放送局のコールサインとして再び使われることになりました。
こうしてJOAPは今も沖縄の公共放送として地域の情報を支えています。全国54局あるNHKの放送局の中で、前橋局と沖縄局の2局は廃局という経験を通して、コールサインという不思議な縁で結ばれていました。