2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とはまったく別の視点で、平安時代末期を描いたのが2012年大河ドラマ「平清盛」だ。その放送時に、NHKウイークリーステラにて人気を博した歴史コラム、「童門冬二のメディア瓦版」を特別に掲載!

清盛の異母弟、家盛が急死したのは、1149(久安5)年3月15日のことといわれています。清盛は数えで32歳でした。

その直前の2月13日に、鳥羽法皇が熊野に詣でています。供として近臣のほか、祇園闘乱事件で罰をうけていた清盛をのぞく、忠盛・家盛・頼盛・数盛らの平氏一門が従っていました。

これをみた無責任な“御所スズメ(根拠のないうわさをたてる低級な朝臣たち)”は、「忠盛殿のあとをつぐのは家盛殿だ」とうわさしました。

ところが供に出たときから病気だった家盛は、3月13日に再発して、宇治川のほとりの落合辺りであっけなく亡くなってしまったのです。人望が厚かったので、多くのひとが悲しみました。めのだった平これつなは、急をきいて現地にかけつけ、その場で出家してしまったそうです。

父の忠盛もふかく悲しみ供養をおこない、大切な剣を正倉院に寄進しています。この“家盛人気”に、清盛はどういう心境だったでしょうか。その主たる原因が自分にあったとはいえ、心はおだやかではなかったでしょう。そんなときに出家し、西行と名のっていた旧知の佐藤義のり清きよが訪ねてきたのです。

義清が出家したのは1140(保延6)年10月15日といわれます。このころは、高野山にちいさなそうあんをむすんでいました。清盛に高野山の宝塔の再建をすすめたのも、そういう立場からだったでしょう。

イラスト/太田冬美

西行となったあとも、かれは俗世間とのかかわりをまったく絶ったわけではなく、やさしい心でまちの風景に接しています。とくに子どものあそびにはふかい関心をもっていました。

われもさぞ 庭のいさごの
土あそび さて生い立てる 身にこそありけれ

の歌は、単に「自分にもこんな子ども時代があったなあ」という感慨ではなく、出家する際、すがり寄る自分の子を置きすててきたその子が、「そろそろ5歳になるな。どうして暮らしているだろうか」という思いも歌われている、といわれています。

わが宿は 山のあなたに
あるものを 何に憂き世を 知らぬ心ぞ

というのがかれの心境ですが、“山のあなたの空遠く幸い住むと人のいう(カール・ブッセ)”という古い詩を思いだしますね。

(NHKウイークリーステラ 2012年4月20日号より)

1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。