NHK放送博物館の川村です。さて2024年3月22日に日本の放送は開始から99年を迎えます。いよいよ放送100年まであと1年となりました。そこで今回は「放送100年」の予習として(?)ラジオ放送開始までの苦難の歴史をご紹介します。
日本のラジオ放送は1923年に起きた関東大震災が大きく影響しました。正確な情報を速やかに広く伝えることの重要性を求める声が国内に広がり、放送開始への期待が一気に高まります。そして震災の翌年1924年11月、社団法人として東京放送局JOAKが設立されました。12月には放送開始は1925年3月1日と決まります。組織が誕生してわずか4か月の間に放送を開始しようというのですから、その準備は大変なものだったことが想像できます。
実は日本で放送を開始することが国の方針で決まると、全国から新聞社など多くの民間企業や地方自治体から放送局の設立希望が殺到しました。特に東京地区では28もの団体からの申請があり、国はあまりの数に事業者を絞る必要に迫られ、最終的に放送事業は社団法人として統一した組織に免許を与える方針を固めます。その結果、東京放送局JOAKに加えて大阪放送局JOBK、そして名古屋放送局JOCKの3つの法人が設立され事業免許が与えられました。こうして現在の特殊法人であるNHKの前身である3つの社団法人が日本最初の放送事業者として誕生しました。
ところがここで東京放送局に重大な問題が発生します。様々な団体の寄せ集めで設立されたJOAKは放送開始日こそ1925年の春を目指していたものの、この時点で肝心の電波を出すための送信機が手配できていませんでした。その一方で社団設立の認可が1925年2月と東京よりも遅れたJOBKでしたが、こちらはすでに当時日本に1台しかなかったアメリカのウェスタン・エレクトリック(WE)社製の放送用送信機を、まだ法人が正式に認可される前の12月に入手していました。もともとこの送信機を購入するつもりだったJOAKは大慌てで同社に送信機をあらためて発注しますが、当時送信機を制作するためには7~8か月の時間を要しました。これではとても翌春の放送開始には間に合いません。このままでは翌年の放送開始どころか、日本初のラジオ放送をライバルのJOBKに持っていかれかねません。困ったJOAKの技術担当者は送信機確保に奔走することになります。
そこでJOAKは思い切った策を講じます。それは当時独自のラジオ放送局の開局を目指して東京市が1924年に設立した研究機関である「東京市電気研究所」にあったゼネラル・エレクトリック(GE)社製の通信用送信機を借り受けるという作戦です。
前述のとおり、国の方針で放送事業の認可は社団法人に与えるということになりました。ただ自治体である東京市は社団法人に参画することができなかったため、JOAKの構成団体から外されてしまいました。その結果、研究所まで作って準備を進めてきた東京市は結果的に放送事業への参画ができなくなりました。しかし電気研究所にはこの時すでにアメリカGE社製の送信機が実験用に導入されています。そこで結果的に目的を失った東京市からこの送信機を借り受けることができないか、JOAKは東京市に対して交渉に乗り出します。しかし東京市にとっては自分たちが放送事業者となるために導入した機材をJOAKに貸し出すということは、感情的に簡単に承諾できる話ではありません。交渉が難航する中、ここで研究所からJOAKに助け舟を出した人物が登場します。それが初代電気研究所所長の鯨井恒太郎教授です。
鯨井所長は東京帝国大学で日本の電気工学研究の第一人者として研究に携わると同時に、東京市の電気研究所の初代所長に就任していました。鯨井所長は「すでに市がラジオ放送を行う可能性がなくなったのであれば快く送信機を貸し出しても良いのではないか」と東京市の担当者の説得にあたってくれました。その甲斐あって、GE製の送信機が東京市からJOAKに貸し出されることになりました。なお東京市電気研究所はその後、東京都の各研究機関と統合し、現在は地方独立行政法人東京都立産業技術研究センターとしてその歴史をつないでいます。
送信機のめどがついたことでJOAKの放送開始は1925年3月1日と理事会で決定されました。しかしこれですべてが解決、めでたしめでたし、とはいきません。東京市が持っていたこの送信機は、無線通信用の送信機でラジオ放送の電波を出すためには出力が足りませんでした。今度はこの送信機を放送用に改修する作業が始まりました。
放送用への改修工事は大部分の部品を急きょ制作することで間に合わせることになりました。送信機がJOAKに正式に貸し出されたのは、放送開始予定2か月前の1月23日のこと。時間の猶予はほとんどありません。ここから技術担当者たちの不眠不休の作業が続きます。その先頭に立ったのは初代技師部長の北村政治郎。逓信省で電気通信技術の研究を行っていた北村は日本のラジオ放送開始にあたってJOAKに招聘されていました。
北村をはじめとした技術陣は送信機の改修に全力で取り組みます。余談ですが日本を代表するジャズクラリネット奏者の北村英治氏は北村部長の9人の子どもたちの末っ子です。
なおこの時点でまだ愛宕山の放送局舎が完成する見込みは立っていなかったため、とりあえず芝浦にあった東京高等工芸学校の校舎を借用して仮のスタジオと送信室を設けて放送所とすることが決まっていました。
芝浦には逓信省の電気通信研究所跡地があり、実験用の空中線用電柱が転用できることが決め手となりました。実はJOAKではこの逓信省の研究所跡を仮の放送所としようと考えていましたが、こちらも逓信省が拒否したためここでも壁にぶつかってしまいます。ただその隣接地に建っていた東京高等工芸学校の建物を借用できることになり、こちらもどうにか形が整いました。いずれにしてもすべてが借り物の状況で3月1日の放送開始に向けて急ピッチで準備が進められました。
こうしてどうにか送信機と送信所がそろい、あとは逓信省の検査に通れば3月1日からの放送開始に間に合うところまでこぎつけました。ところがまだまだJOAKの苦難は続きます。今度は事前の検査の結果、まだ予定されている受信地域に向けた十分な電波が出ていないということで3月1日からの本放送開始は見送りとなりました。しかし既に3月1日放送開始という事で聴取料も集めていたため何とか電波だけは出さなくてはなりません。その結果、1日からとりあえず「試験放送」という名目でのラジオ放送が許可され、どうにか放送がスタートします。
技術陣はその後も電波の安定に向けて必死に準備を進め、その結果やっと逓信省の再検査に合格、晴れて3月22日に芝浦の仮放送所から放送がスタートしました。これが日本のラジオ放送の誕生日となります。
なお放送史の中では、この時点でまだ仮放送所からの放送という事で「仮放送」がスタートしたということになっています。しかし法的にはこれが放送事業のスタートであり、仮設の送信所からの放送であるという意味で「仮放送」と呼ばれていますが、実質的には「本放送」と同じ意味合いです。このため日本の放送記念日は3月22日となっているのです。なお現在NHK放送博物館がある愛宕山に建設された本来の放送局、愛宕山演奏所から本放送が始まったのは1925年7月12日のことでした。この時やっともともと導入する予定だったWE社の送信機も設置されたのでした。
このように日本のラジオ放送は実際に電波を出すまで多くの人々の苦労によって紆余(うよ)曲折を乗り越えて始まったのです。その苦労の歴史の証言者である日本最初の送信機は、今も当館4階ヒストリーゾーンで静かに先人たちの偉業を今に伝えています。