「コーヒーを淹れとくからみんな頂上へ行っておいで」。山頂近くの小屋ま で来ると声をかける。「 僕は何度も来てるからね」と言 ってザックからドリップを出す。頂上は目と鼻の先、手ぶらで向かう皆を見送りながら本当に唐松岳からまつだけにはよく来るものだと思う。

標高は2,700メートルに届かず、隣の白馬岳しろうまだけ五竜岳ごりゅうだけなどに比べるとあまり知られていませんが、スキーで有名な八方尾根はっぽうおねは唐松岳から延びています。夏も途中までゴンドラやリフトが使えるので初めて北アルプスに来るにはいい山です。途中見えてくる白馬三山はくばさんざん不帰嶮かえらずのけんの景観もさることながら、足元の花も種類が多く魅力的です。蛇紋岩じゃもんがんという火山性の岩に覆われているため、大きな木が生えない代わりに、蛇紋岩特有の珍しい花も多いのです。他の山にある花でも、特にピンクや紫の花は色が濃くなるように思います。

秋の気配を感じるころ、砂礫地に目立ってくるのがタカネマツムシソウ。ふもとのマツムシソウに比べると草丈は30センチくらいと低いのですが花はずっと大きくて立派です。花のあとはいがぐり頭のような実になって風に揺れます。図鑑には松虫(今の鈴虫)の鳴くころに咲くからというあまり納得できない説明が多いのですが、この実の形が巡礼が持つ松虫鉦まつむしがねに似ているから名が付いたという説があります。でもその後「いやあのかねは平べったいので似ていない」と異論が出たりして、その由来は専門家の間で結構もめているようです。

尾瀬の至仏山しぶつさんなど蛇紋岩の山は滑りやすくてやっかいですが、それに比べると八方尾根は傾斜が緩く、のんびり歩けます。高い方へ行くと地質が変わって大きな木が生えてくるというのもおもしろい景色で好きです。お湯が沸いてきました。そろそろ連中が帰ってくるころ。みんなには内緒ですが、登りが嫌いな私はあの頂上に立ったことはないのです。

(たかはし・あつゆき第5火・木・金曜担当)

この記事は、月刊誌『ラジオ深夜便』2023年9月号に掲載されたものです。
最新のエッセーは月刊誌『ラジオ深夜便』11月号でご覧いただけます。

▼月刊誌『ラジオ深夜便』の購入はこちらから▼
Amazon.co.jp : ラジオ深夜便
▼月刊誌『ラジオ深夜便』の定期購読はこちらから▼
http://fujisan.co.jp/pc/steranet/web-radioshinya