院というのは、上皇・法皇・女院などに対する敬称です。またその御所をいいます。院政というのはその御所でおこなわれる、その人たちの政治のことをいいます。
天皇が退位すると太上天皇となり、略して「上皇」とよびます。さらに法門にはいった上皇を「法皇」といいます。法というのはお経のことです。
院政をはじめたのは白河院ですが、そのあとの鳥羽法皇も負けずに院政をおこないました。現在でいえば社長が会長になったようなものですが、実権(人事や財政)をはなしません。
社長時代のルーチンワーク(定例的なしごと)から解放されて、
「やりたいしごと、いままでやりたかったしごと」
に思いきって専念できる、という立場になります。院政もおなじです。ですから隠居しごとではなく、現役時代以上にはりきってしごとをするのです。
鳥羽法皇は、その“法皇の実権”を、最大限に活用した政治家です。天皇や上(法)皇には直属の軍(武力)がありません。たよれるのは知力だけです。その知力を実行する勇気だけです。鳥羽法皇はそれをおこないました。
鳥羽法皇の勇気は、いままで自分をおさえつけ、ふりまわしてきた白河院の圧力を、いっさいハネとばしたことです。
・補佐役である摂関(摂政・関白)職へ、白河院によってトバされて、冷やメシを食っていた前関白藤原忠実とその次男頼長を登用したこと
・白河院と、とかくのうわさがあった待賢門院璋子をしりぞけ、美福門院得子を愛し、得子の産んだ皇子を皇太子として、崇徳天皇に退位をせまり、近衛天皇を誕生させたこと
・得子を皇后としたこと(天皇の后以外この尊称はない)
・身の危険を感じ源氏や平家の武士をあつめて、御所の護衛にあたらせたこと
・近衛天皇の亡き後、摂関や美福門院たちの希望をしりぞけ、ばさら者(ホトケの教えにそむく者)の雅仁親王(のちの後白河天皇)を皇位につけたこと
政務は内裏の高松殿と別邸の鳥羽殿(安楽寿院)とでとりました。亡くなったのは安楽寿院で陵もここにあります。人間の争いの原因はやはり人事です。鳥羽法皇の“勇気ある”強引な人事は、やがて大乱をおこします。
(NHKウイークリーステラ 2012年3月30日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。