美福門院得子は藤原長実の娘です。鳥羽上皇の後宮にはいりました。鳥羽上皇より14歳年下です。そして大変な美人だったので、上皇の寵愛を一身にあつめました。自分が産んだ躰仁親王をなんとかして皇位につけたい、とねがいました。
そのころの天皇は崇徳です。上皇が“叔父子”とよんでいた問題の天皇です。崇徳は、上皇の皇后の待賢門院璋子と、白河法皇が通じて生まれた皇子だといわれていました。
そのため上皇は待賢門院にしだいに冷たくなったうえ、崇徳が20歳になると、退位をもとめました。そして美福門院とのあいだの子、躰仁親王を皇位につけたのです。それが近衛天皇で、わずか3歳でした。
一挙に勢力を得た美福門院は、さらに力を増すために手をうちます。鳥羽上皇と待賢門院のあいだに生まれた雅仁親王の子、守仁親王を猶子(養子)にします。また不満のつのる崇徳の皇子、重仁親王も猶子にしました。相当なヤリ手です。
こういう美福門院に接近し、その力を自分の権力増強に利用しようとしたのが関白藤原忠通です。忠通の父忠実は、忠通より弟の頼長をかわいがり、関白のポストを頼長にゆずらせようと画策していました。
そのため新天皇の近衛が元服するとすぐ、養女の多子を皇后に送りこみました。これをみて忠通もまけずに呈子を中宮(皇后と同格)にします。すさまじい藤原一族のあらそいがはじまったのです。
そんな状況のなかで近衛天皇が急死しました。1155(久寿2)年のことで、天皇はかぞえ17歳の若さです。
「つぎの天皇はだれに?」
という皇位あらそいがはじまります。すると御所内にふしぎなうわさが立ちました。
「近衛天皇の急死は藤原忠実・頼長父子の呪いによるものだ」
というものです。うわさが信じられ、父子はにわかに力を失ってしまいました。
頼長は、「これは美福門院と忠通らの謀略だ」というイミのことを、彼の日記に書いています。そうかもしれません。権力を得るためには人間もモノノケになります。
反美福門院派になった藤原父子は、おなじ考えの崇徳としっかり手をむすぶのです。大乱の予兆です。
(NHKウイークリーステラ 2012年3月23日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。