大河ドラマ「平清盛」をみるたびに気になる人物がいます。佐藤義清です。この人物のことは多くのひとがしっています。が、これからの彼の消息は、ドラマの先取りをしては申し訳ないので、詳しいことはひかえます。
ただ今回出家を決意するので、ひとことだけ紹介しておきます。出家した義清が西行法師です。中世の歌人としてあまりにも有名です。とくに、
願わくは花の下にて春死なん
そのきさらぎの望月のころ
と、自身の死ぬ日を期待をこめて予告していて、そのとおりに1190(文治6)年の、2月(如月)16日(望月)、義清72歳で入滅したことは、よくしられています。
出家前の義清は“北面の武士”として名を高めていました。歌道の達人ではありましたが、武士としても武術にたけ、とくに馬上から的を射るヤブサメにすぐれていました。また、公家たちの遊戯である蹴鞠も得意で、文字どおり“文武両道の達人”でした。
鳥羽法皇の信任があつく、法皇の外出には必ず供に指名されました。法皇が亡くなった1156(保元元)年には、その葬列に加わり、つぎの歌を詠んでいます。
こよひこそ
思ひ知らるれ浅からぬ
君にちぎりのある身なりけり
紀伊国田仲庄(和歌山県紀の川市)に領地があり、かなり裕福だったといわれます。このころ朝廷の官位は献金で左右されていたらしく、義清もポストを得るためにはかなりカネを使ったようです。これは清盛の場合もおなじです。
義清の風流ごのみは、母方の祖父の影響がかなりつよい、といわれています。母の父、源清経は単なる風流人ではなく、“今様(当時の流行歌)”の達人だった、といわれます。
今様は雅仁親王(のちの後白河天皇)が積極的にあつめ、『梁塵秘抄』と名づけて出版します。現在の“カラオケソング集”といってもいいでしょうか。
義清は清経からそういう芸能好きの気風をつぎましたが、“女性好き(色ごのみ)”の性格もうけついだ、といわれます。これは出家後もつづきました。
(NHKウイークリーステラ 2012年3月16日号より)
1927(昭和2)年、東京生まれ。東京都庁に勤め、広報室長、企画調整局長、政策室長などを歴任。退職後、作家活動に入り、歴史小説家としてあらゆる時代・人物をテーマに作品を発表する。