幸せを創造するアーティスト・ベアテが残した日本へのラストメッセージの画像
ベアテは「憲法の伝道師」となって日本全国をかけめぐる。
携帯端末に目まぐるしく流れ来るニュースの数々。刻一刻と移り変わる世界情勢。世界とは何か。歴史とは何か——。時代を読み解き、今このときを生きる審美眼を養う特別コラム第15回。
執筆するのは、NHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」をはじめ、多くの名作ドキュメンタリーを手がけてきた映像ディレクター・著作家の貴志謙介氏。全30回(予定)にわたり、ウクライナを軸に世界情勢とその背景にある歴史をひもといてゆく。

20世紀の最後の年、ベアテ・シロタ・ゴードンは、東京にまねかれた。
衆参両院の憲法調査会へ出席を求められたのである。

ベアテは会場に女性議員があふれていることに感銘を受け、
「女性のみなさん、おめでとうございます」とお祝いをのべた。
戦前にはありえない光景だった。

党派をこえて、女性議員がつぎつぎ発言。
ベアテの功績を讃え、感謝した。

ベアテは、市川房江の話を披露した。
アイゼンハワー大統領と市川の会見を橋渡ししたのは、ベアテである。

「日本のめざめた女性たちは、19世紀から人権を望んでいました。
市川先生のように婦人参政権をもとめて闘った女性たちもいたのです。
だから憲法は長く抑圧されていた人々の意志をあらわしたものです」

和やかな雰囲気だった。
しかし、ただひとり、保守党の女性議員が憲法への不満をのべた。

「憲法によって、女性の権利は保障されましたが、
伝統文化が重んじられなくなり、日本女性の良さが失われました」

典型的な保守派の議員の切り口上である。ベアテの心に疑問がわいた。

・・・あなたのいう日本女性の良さって、
ご主人のいうことをハイハイと聞くことですか。

・・・伝統文化がこわされたのは憲法のせいでしょうか?
伝統文化を大切にすることと、女性の社会的権利を認めた憲法とは
関わりのないことです。
悪いと思われることを全部憲法のせいにするのはお門違いです。

・・・わたしはNYで40年間、ライフワークとして、
日本の伝統文化を世界に紹介しようと努めてきました。
日本の伝統文化を軽んじているのはだれでしょう? 

文化予算を出し惜しみ、すばらしい日本の伝統工芸や美術を衰退させ、
お金儲けのために美しい建物や風景を壊してしまったあなたがたにこそ、
その責任があるのではありませんか? 

けれども、ベアテはそうした疑問を胸の内にしまい、こう答えた。

「女性だけじゃなかったのですよ。人権がなかったのは男性もおなじ。
でも女のひとよりはましでした。
私も女ですので、権利のない女の人たちになんとか権利をあたえようと
おもったのです。当然でしょ。」

「男女が平等でなければ、人生を楽しく一緒に歩くことはできません」


アジア・ソサエティの退職からまもなく、憲法24条の危機を知ったベアテは日本の女性に協力し、日米を精力的に往来して、強いメッセージを発信しました。
今回はベアテの人生の第三幕をたどります。

ベアテが「憲法24条の起草者」として広く知られるようになったのは、ソ連が崩壊し、冷戦が終焉した頃でした。
すでに80歳、しかし、求められて日本全国を縦断、200か所をめぐり、女性の権利、人権、憲法の大切さを熱心に訴えました。

憲法の伝道者として、ベアテにあたらしい使命が下ったかのようです。
これも「ベアテの奇跡」のひとつなのでしょうか。

日本国憲法へのベアテの貢献をえがくドキュメンタリーがつくられ、日本各地で、「ベアテさんを語る会」も生まれました。自伝も執筆しました。NYタイムズ、ワシントン・ポストに好意的な書評が出ました。

日本国憲法の先進性が世界で注目されるようになり、BBCでとりあげられ、憲法の誕生をめぐるエピソードが全米ネットワークで放映されました。

日本で講演を行うベアテ。2004年

ベアテの行脚は全国津々浦々におよび、講演会はいつも盛況でした。 
いまを生きる若い日本の女性との出会いをベアテは喜びました。

「ある地方都市で若い女性に『憲法における女性の権利』の話をしたら、『そんなの当たり前でしょ』と言われて、一瞬、絶句しました」

「女性の権利が『あたりまえ』のことになったのは、うれしかったのですが、でも『戦前は、妻は夫と並んで歩くこともできず、お供のようについて行ったのよ』と言ったら、『信じられない!』と驚いていました」

戦前、明治憲法下の日本で、国民の「基本的人権」が否定されていたこと、とりわけ女性は人間扱いされていなかったことを、若者たちは知らない。

しかし、そうした歴史を知らなければ、「あたり前」だと思い込んでいた権利がおびやかされるような事態がおこっても、危機意識をもつことができないのではないか。ベアテは心配しました。

京都で講演したとき、会場から女子学生がこんな発言をしました。
「憲法があっても、日本は今も男女平等とはほど遠い。就職活動などで、女子学生は非常に不利なあつかいを受けています」
ベアテは答えました。
「平等がなければ自分たちでつくらなければならないとおもいます」

ベアテはいつも聴衆にこう語りかけました。

「日本の女性は憲法に保障された権利を得ました。しかし、それを日々の暮らしに活かしていくことは簡単ではありません。毎日、権利のために戦わなければならないのです。日本の女性だけでなく、全世界の女性の課題です」

ベアテは男女差別の改善を要求する住友事件の訴訟を応援しました。
原告の女性から依頼を受けて、裁判官宛の手紙を書きました。
ねばりづよく権利を求める女性を励まし、おおきな力になったのです。

訴訟の理由は理不尽な「結婚退職制度」、組織的な「退職強要」「出産・子育てに対するいやがらせ」、「制度上の男女差別」などでした。

*住友裁判…住友金属工業の女性社員が結婚退職制や賃金差別に対して、
1995年、会社を相手取っておこした裁判。

裁判の原告になった北川清子さんは、NYで開催された「女性2000年会議」に招かれ「住友裁判と日本の男女平等」のワークショップを主宰。
ベアテと出会いました。裁判を支援するビラにもベアテは一文を草しました。

「日本国憲法は、生活のあらゆる面において、男女平等の権利を与えるとしています。女性が男性とおなじ報酬を受け取るという権利において、今なお差別を受けているということは悲しむべきことです」

「男女が平等でない限り、男性も苦しむことになるでしょう。なぜなら、人口の半分が、その可能性を完全に花開かせることができないからです。そしてそれは社会全体の損害になるからです」

2004年、9年がかりで、解決金7600万円と昇格という和解が成立。この勝訴は男女差別とたたかう女性たちを力づけ、ベアテを喜ばせました。

「たとえ時間がかかろうとも努力は報いられるという前例を作ったことは貴重です。憲法で保障された権利を盾に、いまはこうして闘えるのです。女性の声に対して、日本政府はきちんと答えていかなければなりません」


憲法24条の危機

冷戦の終結後、アメリカはアジアにおける軍事戦略の見直しをすすめ、その影響もあって、日本では「改憲論議」がやかましくなっていました。

改憲論議の中心は9条。しかし改憲を叫ぶひとたちは、9条ばかりでなく、24条もターゲットにしていました。
子育てや介護を中心とした女性の役割分担の強化をもとめたのです。

2004年、自民党が憲法第24条の見直しを提案、女性団体から厳しい批判を受けました。全国で集会が開かれ、ベアテもしばしば講演を頼まれました。

「自民党憲法調査会」は、「婚姻・家族における両性平等の規定は、家族や共同体の価値を重視する立場から見直すべきである」と報告しています。
その理由は、「家族など共同体の価値を阻む利己的な考えだから」

「男女同権の見直し」! 半世紀のあいだ、「あたりまえ」のように定着していた理念が21世紀になって、信じがたい危機をむかえたのです。

日本各地で活動する女性グループの代表たちからNYのベアテのもとに、いっせいに電話がかかってきました。
ベアテは「驚くと同時にがっかりしました。(権力者が)何を考えているかは丸見えです」「細かい事情を聞いて、一緒に対策を考えました」

「日本は徹底した男社会です。そのホンネは『女は家庭に帰れ』『家庭を守れ』ということでしょ。昔のように女を家庭に閉じ込めておけば、子供の世話も、年寄りの介護も、女の仕事として押しつけることができると考えているのでしょう。そうすれば政府はお金がかからなくて楽だとおもって。それにともなう難問には目をつぶっているのでしょうね」
 
もし24条を改悪すれば、日本が戦後70年、女性の権利と地位の向上のために、国際社会の一員として積み重ねてきた努力が水泡に帰すおそれがあります。

パンドラの匣を開けたように、あらゆる災厄が女性に降りかかるでしょう。

「個人としての尊厳」を重んじる男女共同参画社会基本法は改廃され、男女の雇用平等も、「女性の役割にそぐわない」とされるかもしれません。
男女雇用機会均等法も見なおされ、介護保険制度も不要とされる。
結局、家族への負担が激増し、それが女性に押し付けられるでしょう。

「こうした一方的な考え方はいまにはじまったことではありません」とベアテは指摘します。「一部の政治家たちは、いまの憲法が誕生したときから、何かにつけて憲法24条に反対し、葬り去る機会を狙っていたのだとおもいます」


危機は70年前から

ベアテの指摘するとおり、24条を標的とした改憲要求はいまにはじまったことではありません。9条とともに、1950年代から、くりかえし24条は危機にさらされてきました。

「きっかけは冷戦の激化です」とベアテは指摘しています。
1949年には中華人民共和国が成立、1950年には米ソ冷戦の代理戦争である朝鮮戦争がはじまります。
「日本の改憲論争の歴史は、アメリカの国策の変化に密接に関係しています」

どういうことでしょうか。

冷戦が本格化。占領政策は、「民主改革」から「反共路線」に転換しました。

すでにGHQ参謀第二部(占領軍の諜報機関)のウィロビーは、大本営の参謀を戦犯訴追から救い、その見返りに、対ソ諜報活動に協力させていました。

憲法施行の翌年、1948年12月、A級戦犯容疑者・岸信介、特務機関のボス・児玉譽士夫らが巣鴨拘置所から釈放されました。
1952年には、公職追放されていた戦争協力者の「追放解除」がはじまりました。

無謀な戦争に国民をかりたてた帝国主義者の多くが、戦後、アメリカの「反共路線」に積極的に協力することで、権力中枢にぞくぞくと復帰していったのです。

かれらの多くは、戦後の民主改革や新憲法に敵意をあらわにします。

1953年、自由党に入党した岸信介は、「憲法調査会」の会長となり、新憲法に公然と異をとなえ、復古色の濃い憲法改正を声高にとなえはじめました。

岸信介 戦前は官僚として「満州国」に深く関与 「昭和の妖怪」とよばれた。

1954年、自由党は岸の主導で、「憲法改正案要綱」を発表。
この文書こそ、保守派の改憲論の源流をなす歴史的文書といえます。

その柱は、「天皇制復活」「再軍備」「基本的人権の制限」、そして「家族制度復活」でした。憲法24条は、戦後最初の危機をむかえたのです。

家制度は天皇制の縮図であるとともに兵士の一大供給源でした。女性は「産む機械」、家は子供を兵士を育てて国に差し出す「基地」にほかなりません。

赤紙(徴兵令)が届くと、日の丸を振って母は息子を笑顔で戦場に送り出さねばならなかった。息子の出征を嘆く母は、「非国民」あつかいされたのです。

いまのロシアと変わりません。いうまでもなく、このような制度の下で、人権など求めようがありません。

「要綱」は、憲法24条については、「旧来の封建的家族制度は否定する」といいながら、戦前の家族制度に近い復古的な改憲案を提示しています。

「夫婦親子を中心とする血族的共同体を保護尊重し、親の子に対する扶養および教育の義務、子の親に対する孝養の義務を規定すること」

24条は、このときから現在にいたるまで、9条に次いで、保守派の改憲論者のターゲットとされてきましたが、底流には、この「要綱」に盛りこまれた復古的な主張が、くりかえし変奏されているように思えます。


たちあがる女たち

1954年、戦前のいまわしい経験をいまだ鮮明に記憶していた多くの女性は、自由党の復古的な改憲案に、はげしく反発しました。

「婦人人権擁護同盟」が主婦連など35の女性団体によびかけ「家族制度復活反対総決起集会」を断行。11月13日朝、日比谷野外音楽堂に2000人、子供連れのお母さんがあつまり、弁慶橋までデモ行進しました。

この大会がきっかけとなって、全国各地の女性がいっせいに抗議に立ち上がったのです。女性によるめざましい意思表示として、歴史にきざまれています。

「家族制度復活を叫ぶ自由党には一票を投じるな」。女性は選挙で自由党を少数派に追い込みました。復古派は女性の力を甘く見ていたのです。

保守派のいう「家族」と、ベアテのいう家族の概念は180度ちがいます。

「私のいう家庭とは愛しあう人の集まりを意味します」とベアテは言います。
「戦前のような、女性を縛る家庭ではありません。もちろん国のための出産マシーンでもありません。産む産まないは夫婦で話し合って決める問題ですが、最後の選択権は女性にあります」

21世紀の日本でベアテが感じた如く、女性の地位は、戦前に比べれば向上しています。

しかし日本は男女の所得差が大きく、国際基準では女性の社会的地位も極端に低い。「ジェンダー・エンパワーメント指数(男女格差指数)」(2022)は、146カ国中116位で、主要7カ国(G7)で最下位です。

戦後をふりかえれば、高度成長時代、企業社会の要請によって、家族は「企業戦士」を送り出す「基地」となりました。
性別役割分業が強化され、女性は家事・育児・介護・パート労働まで重荷を背負います。賃金は低く、社会的地位も向上しませんでした。

バブル崩壊後は、グローバル資本主義が世界を席巻、格差社会が拡大。
アンダークラスが増え、日本は格差が固定化する階級社会にむかっています。

女性の非正規労働者もふえる一方です。理不尽な現実のなかでは、結婚することも、女性の権利や地位を向上させることも、至難のわざです。
 
しかし、逆境ゆえにこそ、「個人の尊厳と両性の本質的平等」という憲法24条の理念が支えとなるはずです。
24条は、差別され搾取されているものの味方だからです。


2012年のクリスマス

窓から、クリスマスを祝うNYの街がみえます。
2012年の12月。89歳のベアテは、死の床にありました。

おなじ12月、日本では、自民党が民主党から政権を奪い返し、第二次安倍政権が成立しました。
改憲の足音が大きくなりました。議論の焦点となったのは、この年の春、自民党が発表した「日本国憲法改正草案」でした。

自民党による過去の改憲案にくらべて、驚くほど復古保守色を強めています。

前段には「天皇を戴く国家」という規定があり、本文に「天皇の元首化」「国防軍の創設」「家族の尊重と相互扶助義務」「公務員の労働基本権の制限」「緊急事態項目」がもりこまれています。

保守派の原点である1950年代の岸改憲案に似て、復古色が濃厚です。

24条などの人権条項についても、復古的な改変を求めています。
「21世紀にふさわしい改憲案」としながら、多様化する家族のありかたを認める姿勢は皆無です。

問題視されているのは24条に書き加えられた「家族はおたがいに助け合わなければならない」という条文です。ごく一般的な道徳のことばですが、しかし個人の信条とすべき道徳を憲法の条文に書くべきではありません。

たとえば生活保護を申請するとき、「憲法に書いてあるので、家族で助け合えない人の援助は却下します」といわれても文句がいえなくなります。

憲法学者の木村草太は、自民党による24条の改憲案を、「人権保障の理念に逆行するような規定」と指摘しています。

「家族が互いに助け合う義務(憲法24条)は、文字通りに読めば、その義務の範囲では、憲法で国民に与えられた権利を国家は保障しなくてもよい、という規定になる」

「そのぶん国家は介護や生活保護などの社会保障を減らしてもよい、という議論にもなり得る。もしも権利保障の水準を下げることを目指しているのだとすれば、自民党改憲草案は国民の生活を脅かす、極めて危険な内容である」

改憲案は、多くの憲法学者から厳しい批判を浴びました。

そもそも憲法は、ひとことでいえば、「国家権力を縛るもの」です。しかし自民党の改憲案は「国家権力を縛る」という憲法の基本を無視しています。

戦争と全体主義の蔓延した20世紀の歴史、そして今のロシアをみれば誰にでもわかるとおり、国家権力の濫用ほどおそろしいものはありません。
わたしたちの人生を破壊し、生命を奪い、はかりしれぬ災厄をもたらします。

権力の暴走をふせぐ歯止めが絶対に必要です。そのために憲法がある。
憲法とは悲惨な歴史から人類が学んだ叡智なのです。

残念ながら、法律家が嘆くように、国会議員の多くが「権力の暴走をふせぎ、個人の権利を守る」という憲法の基本を理解していません。

この復古的な改憲案のルーツは1954年の岸改憲案でしょう。
およそ70年の後、孫の安倍晋三がふたたび復古的な改憲案を主導しました。
ともに復古的な家族観を公言し、憲法24条を改憲の標的としました。

しかし24条から魂を抜く「改正」が女性に幸福をもたらすとは思えません。

もちろん、国民がのぞめば、法にのっとり、憲法を改正すればよい。
復古的な改憲案ばかりが選択肢であるとはかぎりません。
問題は具体的に、どこがどのように変わるか、です。
改憲発議の選択肢をつくるには、もっと国民的な熟議が必要です。

2012年12月、NYのベアテは病床にありましたが、安倍晋三が旗をふる憲法改正案について知っていました。

日々、体力の衰えていくなかで、ベアテは気力をふりしぼり、日本の新聞社からの電話取材に応じました。ベアテは、自分の人生の最後に、日本国憲法への強い想いを伝える決意をしたのです。

日本国憲法はすべての国の憲法のモデルになる。日本国憲法を世界に広めていくべきだ。日本の女性に、権利のために行動するよう、懸命に訴えました。

電話でのインタビューから10日後、ベアテは旅立ちました。

ベアテの死を悼む記事を読めば、日本では「憲法の起草者」、アメリカでは、「偉大なプロデューサー」としての名声が高いことがわかります。
 
ふたりのベアテをつなぐものはなんでしょう。
それがふたつでなくひとつであることをベアテ自身が語っています。

「あの戦争が終わった直後の惨めな暮らしのなかでも、日本の女性はつねに小さな努力を積み重ね、前向きに歩んできました。わたしはそれを知っているだけに、さらに大きな幸せを築いてほしいのです」

「幸せを創造するアーティストになってほしいのです。そして、最初の作品が自分自身であるように」

幸せを創造するアーティスト。
それこそベアテの生き方を言い当てているのではないでしょうか。

(「ベアテの奇跡」終わり)

【FEEL ! WORLD】
女性の叛乱

ベアテさんがいうように、女性の権利が抑圧される国では、誰も幸福にはなれません。しかし世界を見渡せば、人権を保障する憲法もなく、女性を差別、搾取、迫害する強権的な国家がいまもなお数多く存在することに気づきます。

イランでいま女性の叛乱がおきています。抗議の合言葉は、「女性・生命・自由」です。女性たちは命がけで、男女の平等と、基本的人権をもとめて闘っています。

発端は、9月13日、22歳の女性、マフサ・アミニさんが、スカーフのかぶり方を風紀警察にとがめられて逮捕され、3日後に死亡した事件です。
警察は「心臓発作が原因」と主張、しかし女性の家族や市民は、拷問による虐殺を確信し抗議のデモを行いました。デモは全国に広がり、今も続いています。

*まずこのふたつの映像をぜひごらんください。これほど深く心をゆさぶられる映像に出会うことはめったにないとおもいます。イランの女性の底知れぬ悲しみと怒りが伝わってきます。

(88) Shervin Hajipour - Baraye ... - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=SmHpGpcADbI

歌詞の一部をご紹介します。

路上で踊り 恋人と口づけするために 錆びた心を変えるために
姉と妹のために 壊された子供たちの夢のために  
恥ずべき貧困、独裁、虐待、強いられた無意味なスローガンに抗議するために
獄中の学生のために 眠れぬ夜と睡眠薬のために とめどなく流れる涙のために
長く暗い夜のあとに訪れる朝の光のために
女性、いのち、自由のために! 自由のために! 自由のために!・・・

歌手のShervin Haijpourはこの歌をリリースした直後、逮捕されました。

(88) Shervin Hajipour - Baraye - shiraz dance ensemble /israel - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xVqBic4fot0
(シラーズのダンス・アンサンブルの素晴らしい表現に胸を打たれます)

抵抗の中心には若者がいます。とりわけ若い女性は危険をかえりみず、抗議の最前線に身を投じています。これまでに、10代の少女を含む200人以上が死亡したとされています。しかし女性たちの怒りはすさまじく、権力の横暴にもひるみません。

メディアや人権団体の報告をみるかぎり、これは、反体制の政治勢力が主導したデモではなく、「神政政治」の専制支配に対する女性たちの不満と怒りが燃え上がったことから自然発生的にひろがったレジスタンスです。

イランの女性は虐げられ、人間としてのあつかいをうけていません。
離婚する自由はなく、財産を相続することもできません。
裁判に訴えても女性の証言は軽視され、男性の思い通りになってしまいます。女性に何の権利もなく「家制度」に苦しめられた戦前の日本のようです。

昨年の夏、ライシが政権を握ってからは、女性への迫害、差別がエスカレートする一方です。女性の処刑が2倍に増えたといいます。風紀警察の取り締まりを拡大、女性へのいやがらせは日常茶飯事。
映像にもあるように、ドレスコードに少しでも違反する女性がいれば虐待します。ライシは、最新テクノロジーを導入、さらに監視を強化しています。

メディアや人権団体の報告をみれば、イランの体制による女性虐待は人間性を破壊する行為というほかありません。マフサ・アニミの犠牲は氷山の一角でしょう。だからこそ女性の怒りが爆発しているのではないでしょうか。

*イランの女性歌手が、「Bella Ciao」(さよなら恋人)というプロテスト・ソングに心情を託し、22歳の若さで亡くなったマフサ・アニミさんへの追悼の気持ちをペルシャ語で歌っています。

「深きところから 声がきこえる 美しい人よ さようなら・・・」

10月26日、マフサ・アミニさんの墓に一万人の大群衆が駆けつけ、彼女の死を悼みました。ロイター通信は、イランの治安部隊が墓に集った人々めがけて発砲したと伝えています。抗議のデモがはじまってから、イラン全土で、子供29人をふくむ234人が治安部隊に殺されています。

「Bella Ciao」という歌は第二次大戦のころ、ファシストへ命がけの抵抗をこころみたパルチザンが歌っていたとされ、自由をもとめる闘いを象徴するプロテスト・ソングとしていまも世界中で歌われています。

(88) mahsa amini iran - bella ciao - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=oQtMtHEmhgE
https://www.youtube.com/watch?v=k0UAXdsEl5k(英語字幕あり)

*レジスタンスの歌「Bella Ciao」は、ウクライナでも歌われています。

タイトルは「ウクライナの怒り」。歌詞はアレンジされています。

ある朝 予告もなく 大地が揺れ 血の雨が降る ミサイルがとびかい 
戦車がはてしなく ウクライナの魂が怒りに震える 
ウクライナは屈しない 世界と絆をむすび 侵略者を打ち倒す
われらは自由をとりもどす われらは平和をとりもどす

人気歌手フリスティナ・ソロヴィが歌っています。ライブ版とスタジオ録音盤。

https://www.youtube.com/watch?v=Gs7Yem5zUeg&list=RDGs7Yem5zUeg&start_radio=1&rv=Gs7Yem5zUeg&t=3&t=9
https://www.youtube.com/watch?v=T83RQh1LEBU

*本家イタリア版もご紹介します。ファシストとの闘い、恋人との別れを歌った切ない名曲です。
https://www.youtube.com/watch?v=EBw45LD8bMw
https://www.youtube.com/watch?v=4iqYv_fS2SI(日本語字幕あり)

京都大学文学部卒業、1981年にNHKに入局。特集番組の制作に従事。NHK特集「山口組」、ハイビジョン特集「笑う沖縄・百年の物語」、BS特集「革命のサウンドトラック エジプト・闘う若者たちの歌」、最近作にNHKスペシャル「新・映像の世紀」「戦後ゼロ年東京ブラックホール」「東京ブラックホールII破壊と創造の1964年」などがある。ユネスコ賞、バンフ国際映像祭グランプリ、ワールド・メディア・フェスティバル2019インターメディア・グローブ金賞など受賞多数。現在はフリーランスの映像ディレクター・著作家として活動。著書に『戦後ゼロ年東京ブラックホール』『1964東京ブラックホール』がある。2023年3月放送の「ETV特集・ソフィア 百年の記憶」では、ウクライナ百年の歴史リサーチ、映像演出を担当。